我想說說那位老婦人的故事, 是因為那唯一的一次去她家拜訪, 她告訴我的故事令我記憶深刻難忘!
在波士頓, 外子上哈佛大學 修碩士時, 我們住在 奧斯頓 (Allston). 修博士時, 我們住在 薩摩維爾 (Somerville). 薩區主要街道 薩摩維爾大道 (Somerville Ave) 很長. 在一家超市對面 有一些老舊木造公寓, 我們就住在面街其中一單位的三樓. 公寓後面上坡 至下一個與薩道平行的大道, 高地道 (Highland Ave) 之間, 大概有八個街區(Block) 這位老婦人的房子就在第五街區.
這位老婦人的名字叫 Tina 姓什麼已記不清. 她說的一口濃重英國腔的英語, 身材中等 清瘦而蒼白. 那時看上去大概六十多歲. 穿著極樸素 甚至有點土氣, 走路一腿跛得厲害. 每次見她 她都提著一個灰黑色舊手提袋.
我和她因為時常搭同一班早班公車去地鐵站去城裡上班, 便慢慢熟識起來. 從無數次公車來前的幾分鐘閒聊中, 我知道她沒有兒女 但在歐洲尚有親戚 . 八, 九年前 丈夫過世後 便一直獨居 , 與二十二隻貓相依相伴. 她一直在一所醫學中心非全職的負責醫療器具的清潔消毒工作.
每次見到她 她手提袋裡永遠有個保溫瓶. 我猜測她很少在外吃飯 只吃自己帶的.
有一次她主動邀請我周末去她家裡坐坐 我欣然應允.
那個周末下午, 我帶了一點水果去到她家, 她很熱情的領我進入, 一進入, 登時傻眼! 所有的厚窗帘都是拉上的, 只有一處留有半公尺寬的蕾絲帘, 些微的光線射入. 屋內相當昏暗. 她帶我參觀她一樓的客廳, 起居間, 餐廳, 廚房 及旁邊的儲藏間. 一邊看一邊講那些家具的歷史. 客廳與起居間裡 除了她與當初先生坐的兩張沙發椅及餐桌, 椅外, 所有的大小沙發, 軟椅子 全部被罩布覆蓋 ,罩布上還包一層透明塑膠布, 有的塑膠布上又蓋有報紙. 房內到處都是貓, 老的, 小的, 花的, 黑的, 黃的, 白的 ... 椅子上, 櫃子上, 地上... 走的, 坐的, 睡的, 追逐的... 我簡直是進入了非人世界.
她用精緻的咖啡杯準備了紅茶放在餐桌上, 我們便圍著餐桌坐下. 她開始談她的貓 ; 牠們的名字, 身世, 個性, 誰跟誰相處得好, 誰跟誰處得不好, 我就忙著觀察這隻那隻她正在形容的貓, 聽著聽著 , 突然她轉變話題說 : 我先生就坐在那張椅子上. 我順著她指的方向看那個空在那的舊大沙發椅, 有點不解的問 : 對不起(Beg pardon)? 她說 : 我先生仍和我生活在一起. 他天天都會坐在那一會兒和我談話. 我也每天準備他的一份食物, 我們還是天天一起進餐 ...
她那雙不算大但有神的藍眼睛 強有力的盯著我的眼睛 說 : 妳大概不會相信我說的這些 但這是真的 !
聽到這裡 我有點發暈!!! 但還是努力鎮定的在顱內快速的分析著: 她能一直在外工作, 還是在醫療單位工作, 可見她精神狀態應無大問題. 可如果正常, 怎麼會說這樣的話? 她又說 : 我們還是常一起出外散步, 看到一些別人家放在院門口的丟棄物, 要是他覺得有用的, 他就會幫著我搬回來 . 就在幾天前, 我們看到一根房樑似的木頭, 他說 這個可以搬回家. 我說 : 這麼重這麼長怎麼搬? 他說 : 妳就光扶著前面, 我來扛後面. 說到這裡, 她站起身來, 表演給我看, 她是怎麼扶著木頭而她先生是怎麼在後扛那條木頭. 就這樣就搬回家了. 她說 : 塔瑪拉 (我英文名), 我告訴妳, 沒有他的幫助, 我自己是絕不可能做成的 !!!
看著她那又瘸腿又單薄的身體, 再看她家裡堆的那些粗重的條條塊塊, 這整個情形真的像個謎 !!!
最後一次見她 是在聽她說她工作單位的幾位醫生, 為了感謝她長久以來的貢獻, 願為她施行骨骼手術. 希望能讓她腿瘸的情形改善後不久, 大概也就是她手術後療養期間 我們也搬離了薩摩維爾.
如果她還在世也是九十多近百歲的老太太了. 如果已不在世應已與她先夫在天國重聚了!
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あの老婦人の話
私はあの老婦人のことを話そうと思う。というのも、ただ一度だけ彼女の
家を訪問して彼女から聞いた話が忘れ難く、記憶に深く残っているからだ。
ボストンで夫がハーバード大学の修士課程を学んでいる時、私たちはオールス
トン(Allston)に住んだ。博士課程の時はサマービル(Somerville)に住んだ。そ
この幹線道路サマービルアベニュー(Somerville Ave)はとても長い。スーパ
ーの向かいにいくつかの古い木造アパートがあり、私たちは幹線道路に面した
棟の三階に住んでいた。アパートの裏の上り坂は、サマービルアベニューと並
行に走るハイランドアベニュー(Highland Ave)まで続いていた。その坂道にはお
よそ8街区(Block)あり、老婦人の家は5街区にあった。
老婦人の名前はティナ(Tina)、姓は何だったかもうはっきり覚えていない。
彼女は強烈な英国訛りの英語を話し、中肉中背、ほっそりして青白く、当
時は60数歳に見えた。とても地味な服を着ていて、時に少し野暮ったか
った。歩くときは片足を引きずって歩く。いつ見ても黒っぽい灰色の古い手
提げバッグを提げていた。私と彼女はよく朝の同じ通勤バスに乗り、地下鉄
駅に行き、市内に通勤していたので、次第に親しくなってきた。バスが来る
前の数分間のおしゃべりの中からわかったことは、彼女には子供はいないが
ヨーロッパにまだ親戚がいる。8、9年前にご主人が他界した後、ずっと一人
暮らしである。22匹の猫と寄り添って暮らしている。医学センターで非常勤
で医療器具の洗浄消毒の仕事を続けている、などである。彼女はいつも手提
げバッグの中に魔法瓶を入れていた。外食は少なく、自分が持ってきたもの
を食べるだけなのかなと思った。
ある時、彼女は私に週末遊びに来るようにと誘った。私は喜んで承諾し
た。その週末の午後、果物を持って彼女の家に行った。彼女は心から私を
招き入れてくれた。が、入ったとたん、驚いてものも言えなくなった。す
べての厚地カーテンは閉じられ、一か所だけレースのカーテンが50㎝ほど残
っていて、そこからわずかな光が射し込んでいた。部屋の中はかなり暗い。
彼女は一階の客間、リビング、食堂、台所とその横の貯蔵室を案内してくれ
た。家具を見ながら、その歴史を話した。彼女と当時ご主人が座っていた2
つのソファーと食卓、椅子を除く、客間とリビングの大小のソファー、柔ら
かい椅子はすべてカバーがかけられていた。カバーの上にはさらに透明のビ
ニールがかけられ、またそのいくつかには、新聞紙がかけられていた。部屋
の中はどこもかしこも猫だらけ。年老いた猫、小さい猫、模様のある猫、黒
色、黄色、白色...椅子の上、箪笥の上、床の上、歩いている、座ってい
る、眠っている、追いかけっこしている...まるで非人間世界に入ってし
まったようだ。
彼女は細工の細やかなコーヒーカップで紅茶を入れてテーブルの上に置
いた。私たちはテーブルをはさんで座り、彼女は猫の話を始めた。猫たち
の名前、身の上、性格、どれとどれが相性が良くて、どれとどれが悪い。
私は忙しげに、この猫あの猫と彼女の説明する猫を観察した。ずっと聞きつ
づけた。突然、彼女は話題を変えて言った。「私の夫はあの椅子に座って
いるわ。」私は彼女の指さす先の誰も座っていない古い大きいソファを見
た。ちょっと理解できずに聞いた。「え~っと、失礼ですが。」彼女は言
った。「私の夫はいまも私と一緒に生活しています。彼は毎日そこに座って
私とおしゃべりしています。私は毎日彼の食事を用意し、毎日一緒に食事し
て...」
彼女の大胆ではないが、キラキラ輝く青い目は力強く私の目をみつめた。
そして言った。「あなたはおそらく私の言っていることが信じられないでし
ょう。しかし、これは本当のことです。」
ここまで聞いて私は眩暈がした。しかし、なんとか落ち着いて頭の中で素
早く分析した。「彼女はずっと外で仕事をしてきた。それも医療機関で働い
ている。彼女の精神状態に問題があるはずがない。しかし、もし正常なら
ば、どうしてこんな話ができるのだろうか。」彼女はさらに言った。「私た
ちはいつも一緒に散歩に出かけるの。よその人が庭の前に捨てている物を見
て、もし彼が役に立つものだと思ったなら、私と二人で協力して持って帰
る。数日前には、家の梁のような木材を見て、これは家に持って帰ることが
できるなと言った。私はこんなに重くて長いものをどうやって運ぶのと聞い
た。君は前を持ちなさい、私は後ろを担ぐからと彼が言った。」ここまで話
して、彼女は立ち上がり、彼女がどうやって木材を抱え、彼女のご主人がど
のように後ろで担いで持って帰ってきたかをやって見せた。彼女は言った。
「タマラ(私の英語名)、これは本当なの。彼の助けなしで、私一人で絶対
にできない事だわ!!」
足が不自由でひ弱な彼女の身体を見て、さらに彼女の家の太くて大きい木
材の山を見ても、この事実は全く謎めいている!!
最後に彼女を見たのは、彼女が足の手術のことを話した時だった。彼女の
職場の数名の医師が彼女の長い間の貢献に感謝して、不自由な足が良くなる
ようにと、骨の手術をしてくれるということだった。その後まもなく、おそ
らく彼女の手術後の療養期間に私たちはサマービルを離れた。
もし、彼女が健在ならば90過ぎの100歳近い老婦人である。もし、こ
の世にいなければ、すでに天国でご主人と再会しているに違いない。
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2011年5月29日 星期日
2011年5月25日 星期三
制服觀 (組圖)

我女兒小學 一, 二年級在澳大利亞坎培拉上的, 三,四年級在臺灣台北上的, 五,六年級在日本宮崎上的. 因為在這三個不同國家, 不同語言, 不同文化, 各上了兩年小學, 等於是各經歷了兩個春夏秋冬. 讓孩子與家長都留下了不少回憶. 對家長而言 最美好的是在坎培拉的兩年.
近十七年前的坎培拉除了景色別緻, 空間寬廣, 民性悠逸外 女兒上的那個小學裡的老師们卻特別令人懷念. 她們各個好像都在無形中奉行著 有教無類 甚至 慈悲為懷 的宗旨. 那時每天早上我都走路送孩子去上學, 沿途常常看到有小朋友在摘路邊的小野花. 有時小朋友會主動告訴路人, 他/她 的花是要送給某某太太的 (孩子们稱老師都是某某先生, 某某太太...) 我就碰過好幾次.
每一班每天可能都有小朋友送花給老師. 如果不是老師真愛學生, 學生真愛老師, 怎麼會有這種情形發生?
令人懷念的還不止這些, 經過了後來的臺灣及日本的小學及初中生活, 那個小學的校服制度才真叫人"敬佩" !
坎培拉的坎伯小學的校服是以上身橘黃色配下身黑色為基調. 可貴的就在 它提供了許多選擇 : 薄的,厚的, 長袖的,短袖的, 圓領的, 襯衫的, 短褲, 長褲, 裙子, 女生還有黃底細格子的連衣裙. 孩子依照 自己 的感覺, 怎麼組合著穿都可以 ,都是校服, 都不犯規. 不會像後來在臺灣或日本常見的,換季以後 碰到天氣異常, 學生不是大汗淋漓就是凍得發抖.
或許你以為要買那麼多件制服 家長負擔一定不輕 ?這方面他們就更有智慧了; 學校有一間房專讓家長寄賣孩子穿過的新舊制服, 需要添購制服的家長絕對可以 以極低的價格在這間屋裡找到他要的各款制服. 而因為制服質料好 加上件數多, 因此淘汰率就低. 有的衣服甚至可以轉三手四手, 一點都不浪費資源.
許多尚有硬性規定制服的學校 都有它各式各樣的支持理論; 或謂英國如何如何, 德國如何如何, 但澳大利亞是大英國協一份子, 方方面面應仍承襲更多英國的制度與概念. 可是我們的經驗是, 在制服方面, 她卻有如此的彈性與人性, 怎不令人事隔那麼久仍為她擊節稱賞 !
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本欄圖為女兒與坎伯小學的校標
2011年5月22日 星期日
"回看來時路 前眺未知處" (一)

前言
我雖然愚鈍 卻認為自己記事頗早. 因為我和大弟相差兩歲半, 一些記得的事情的場景中, 並無大弟的出現 . 以之推算 我最早的記憶 大概是兩歲左右開始的.
從出生到父母隨政府撤退至臺灣的這段, 雖然是我的懵懂期, 但因先父留下了他前半生的回憶錄, 讓我可以較仔細完整的描繪出那段的經歷.
1949年對近代中國是個相當特殊與不堪的一年. 時光雖然離它越來越遠, 但想為它記錄點甚麼的人一定不少. 我才疏學淺 所知有限, 僅能以自己這枝禿筆 就自己能得到的資料 記下我與我家的這部份.
就從1949年開始吧 !
出生 * 初生
我出生於1949年5月戰亂的中國上海. 出生後六天-5月27日 中共解放軍攻佔了上海市. 隔天5月28日上海市人民政府成立. 原本父母打算於虹口的上海市立婦產科醫院生我, 但在5月20日晚上 母親陣痛開始時, 戰況已趨緊急, 已叫不到車去該院. 幸當時他們的一位好人房東張砥中先生 派他的黃包車車伕將母親送至位於老垃圾橋的國恩產科醫院. 經過一晚的痛喚 第二天清晨五點半左右 我被生下來了. 父親的回憶錄中記載著 : 小娃娃 哇!哇! 墜地了; 我一看, 那小頭顱還沒有我的拳頭大. 醫生一秤 還不到六磅重 .全身又瘦又黑, 那胳臂與小腿 只有小黃瓜那麼粗. 我心裡想: 這個樣子能養大嗎 ? 便問大夫 : 這麼瘦小 能養大成人嗎 ? 大夫與她擦拭全身後 端詳了一會兒, 娃娃的兩眼竟張開了, 不但大大的而且烏溜溜地蠻有神. 大夫說: 她的身體雖然瘦小, 你看她兩隻有神的眼睛, 就表示她的生長是很正常的 !
老垃圾橋位當虹口, 上海北站與英法租界之要衝, 是兵家必爭之地. 出生後第五天中午, 蘇州河兩岸槍砲聲已趨激烈. 父親本想讓母親能在醫院多休息數日, 見情勢不對便提早辦出院.
出院後第三天, 父親至醫院領取出生證, 那位接生大夫帶著父親上五樓母親住過的病房, 推門一看, 滿房的瓦礫灰塵. 大夫說 :你夫人與小女真是命大啊 ! 那天你們出院不久, 醫院遭到砲彈轟擊, 一顆砲彈就正中落在你夫人的床中 ! 如未辦出院 母女性命絕難保的.
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此欄舊照為 我與先父母與大弟
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来た道を振り返り
序文
私は愚鈍であるが、非常に小さい時のことを記憶している。私とすぐ下の弟
との年の差は2歳半で、その記憶の場面には弟の姿は全くない。これから推測
するに、私の最も古い記憶は2歳前後と思われる。
生まれてから両親が政府の撤退に伴って台湾へ行くまでの間、私はまだ分別
のつかない頃だった。しかし、先に父が前半生の回想録を残していたので、私
は仔細に完全にその時期の経験を描くことができる。
1949年は近代中国にとって、かなり特別で耐え難い一年であった。今で
はずいぶん昔の話になったが、その頃の中国のために何か記録を残そうと思う
人は少なくない。私は浅学非才であり知っている事にも限りがある。しかし、
父から得た資料で、私と私の家族のことを、悪文ではあるが書き記すことはで
きる。
出生 人生の始まり
私は1949年5月、戦乱の中国上海に生まれた。誕生の六日後―5月27
日は人民解放軍が上海市を攻め落として占領した。明けて5月28日、上海市
人民政府が成立した。本来、両親は虹口上海市立婦人科医院で私を産むつもり
だった。しかし、5月20日の夜、母の陣痛が始まった時、戦況はすでに差し
迫っていて、病院に行くのに車を呼べる状態ではなかった。幸いにも、当時の
大家さんの張砥中さんがとてもいい方で、彼の人力車の車夫を差し向けて母を
老垃圾橋にある国恩産科医院に連れて行ってくれた。一晩中の陣痛の苦しみを
経て、次の朝5時半ごろ私は生まれた。父の回想録の記載によれば;
―赤ちゃんはおぎゃおぎゃと生れ落ちた。見ると、その小さな頭は私のこぶ
し大もない。医者が量ってみると6ポンドもない。全身細くて黒く、腕とす
ねはきゅうりの太さしかない。私は大きく育てることができるのだろうかと思
った。そして医者に聞いた。『こんなにやせっぽちで、大人になることができ
るのでしょうか』医者は彼女の全身を拭ったあと、詳しく診察した。赤ちゃん
は意外にも目を開けた。その目は大きく、生き生きとした黒い目で、とても元
気がよかった。医者は言った。『彼女の身体は痩せて小さいけれど、この元気
な目を見なさい。彼女の成長が正常であることを示していますよ。』
老垃圾橋は、虹口にあり、上海北駅と英仏租界の要衝で、軍事家なら必ず取
ろうとする重要な場所である。誕生後五日目の昼、蘇州河両岸の銃砲の音はす
でに激しい状態になっていた。父は、母を病院で数日は休ませられると思って
いたが、情勢は尋常ではないと見て、早めに退院させた。
退院して三日目、父は病院に出生証を受け取りに行った。私を取り上げたあ
の医者は父を連れて5階の母がいた病室に上がった。ドアを開けてみると、部
屋中、瓦礫とほこりでいっぱいだった。医者は言った。「あなたの奥さんとお
嬢さんは本当に運が良かった!あの日あなた方が退院してまもなく、病院は砲
弾をあびた。一発の砲弾は奥さんのベッドの真ん中に命中した。もし、退院し
ていなかったら、母子の命は絶対保証できなかった。」
この欄の古い写真は、私と父母と弟。
日譯 後藤香代子
2011年5月20日 星期五
2011年5月18日 星期三
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