2012年5月27日 星期日

更正 Correction

下欄的視頻 ,在Rothenburg 部份,一座教堂名稱不小心打錯了字,請原諒。正確名稱應為:

Saint James Church     德文為:St. Jakob's Church

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The video in the  column  below, within Rothenburg part, I made a spelling mistake on the name of a church, the correct name is: Saint James Church. German name of the church is: St. Jakob's Church.



德國三城鱗爪.m4v

『回看 』(十)の日本語訳を載せました。ご参照ください。

本編は2 月の欄にあります。

小聲明

下面欄內的視頻,是我用一個不熟的新程式完全自己摸索編輯出來的,因為是第一次的作品;原始,粗陋,零亂在所難免,請本版讀者見諒。我會不斷改進學習,未來隨著技術的熟悉,作品應該會越來越好。敬請期待並感謝支持。

2012年5月20日 星期日

懷念宮崎-總匯

羅騰堡一日遊 圖集

市集廣場一角

中世紀建物



議員飲酒廳。遊客等待時鐘兩旁整點出現的電動偶“飲酒市長”

城門正上方面具口中遇敵可噴出瀝青




翱翔秀(二)

這是一隻小鴞


展櫃內展出各式馴鷹眼罩

這位可能是教頭,禽場主持人。

翱翔表演場地之一

中左暫停在柱上的隼,馬上又要起飛

翱翔秀(一)

昨天和外子及兩位朋友去參加了一個公辦的羅騰堡(Rothenburg)一日遊; 在去的途中還在一個小鎮參觀了一場鷹類的翱翔表演,覺得蠻有意思,貼幾張照片與大家分享。照片中的禽應包括了鷹,雕,鴞(音 消),隼(音 損)。

這是隼的說明板

現代的馴鷹師。和鷹在建立感情

以前的馴鷹師




2012年5月18日 星期五

三美圖

三個美麗的小姑娘,右為好友的多才多藝大家風範的獨生女  真知

2012年5月16日 星期三

回看來時路 前眺未知處(十四)

1950年初夏韓戰爆發。1954年1月23日一萬四千多名“反共義士”從韓國被接到台灣。當時父親因任職東防部政戰方面職務,因此可能負責一些有關歡迎“反共義士”的各類活動。記得那一陣子,整個社會就像沸騰了似的歡欣鼓舞。父親每天都忙碌異常...。

對那一陣子的情景,有幾個模糊的記憶畫面在腦中;有一天,街頭巷尾擠滿了人群,等待著反共義士的車隊,當他們出現時,人民熱情的歡呼聲夾雜著鞭炮與鑼鼓聲響徹雲霄;仰望著排排坐在敞篷大卡車上的“反共義士”,人人激動,興奮難耐。

時空變換,事過境遷,以前每年如火如荼慶祝的 “一二三自由日”,也不知從什麼時候起再也無人聞問,更別說還慶祝什麼了。當時這麼多反共棄共的抗美援朝戰士,不願回大陸而願去台灣追隨蔣介石總統的事件對才敗逃台灣不久的國民黨政府而言,真像是一針寶貴的興奮劑;但這劑是怎麼弄到的?幾十年後才一點一滴,逐漸非正式的透露出來...。有一說,當時在朝鮮戰場俘虜營中,許多戰士是在有組織有隱秘身份人士的軟硬兼施之下,被硬在身上刺了青。被在身上烙上了鮮明的反共標記的人,還有可能再回到共產黨主政的社會中嗎?所以便只有來台灣一途可選了!

這些已凋零近盡的老兵們,他們在台的餘生,物質上,大部分應都受到台灣政府的照顧;但有許多都是孤老抱病,空虛遺憾的走完一生。

那些殘缺傷痛的心靈,只能隨風逝去,有誰會回望它們一眼呢?

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1950年初夏、朝鮮戦争が勃発した。1954年1月23日14000名あまりの
「反共義士」が台湾に連れてこられた。
当時父は「東防部政戦方面職務」についていたので、「反共義
士」歓迎行事に関する責任を負っていた。
あのころ、社会全体が沸き立つように浮か
れていたのを覚えている。父は毎日忙しく、その様は尋常ではなかった。

当時の情景について、いくつかぼんやりとではあるが記憶が残っている。
ある日、街のあちこちに人がひしめいて、
「反共義士」を乗せた車列を待っていた。彼らが現れ
たとき人々の熱い歓呼の声は爆竹や銅鑼や太鼓の音が入り混じって
空高く響き渡った。幌をはずした大型トラックに並んで座った
「反共義士」を仰ぎ見て、人々は感動し、興奮極まりなかった。

時代も移り、事情もかわった今、以前は、毎年にぎやかに熱烈に
祝っていた「一二三自由日」(1月23日の反共記念日)も、
いつからなのか噂で聞くこともなく、問う人
もなく、さらに祝う人もいなくなった。
当時、アメリカに対抗して朝鮮を援護した多くの中国人兵士が、
共産党に背き、共産党を捨てて大陸に帰らず、蒋介石総統の後を
追って台湾に来ることを願った。
台湾に敗走してきて日も浅い国民党政府にとって、
このことは、貴重な興奮剤のようなものであった。
しかし、この「反共義士」はどのような経緯で台湾にやってきたのだろうか。
数十年たって、少しずつ非公式ではあるが明らかになってきた。
一説には、当時朝鮮戦争の捕虜収容所で、多くの捕虜たち
は、ある者によって組織的に脅され、騙され身体に入れ墨を入れられた。
身体にはっきりと反共の印を焼き付けられた人が、
共産党主権の社会に再び戻ることなどできる
だろうか?だから、
台湾に来るというただ一つの道を選ぶしかなかったのだ!

すでに年老いて終末に近づいたかつての「反共義士」らは、
台湾政府から生活面における優遇を与えられるべきである。
しかし、彼らの多くは独りぼっちで年老いて病気
も抱え、むなしく遺恨を抱いて一生を終る。


満たされない痛ましい悲しい心は、ただ風と共に消えてゆく。
誰がその魂を顧みることがあるだろうか?

2012年5月6日 星期日

下雨天

這兩天都是陰雨天,腦際不斷出現以前老師教的兩段有趣的有關中國文字的“遊戲”,在這貼出,或許博君一笑!記憶不完整之處也請見諒!

下雨天,留客天,留我不留?

下雨,天留客,天留,我不留!

下雨天,留客天,留我? 不留。

下雨天,留客天,留我不? 留。

下雨天留客,天留我不留。

下雨天留客,天留我? 不留。

下雨天留客,天留我不? 留。


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字字皆可 起頭,字字也皆可是尾






清心也可以
心也可以清
也可以清心
可以清心也
以清心也可

昨一天都是陰雨天,以為看不到月亮了;但是晚上卻晴開了,讓我們看到了又圓又亮的所謂的超級月亮。

月亮從屋角升起

月亮大放光明

2012年5月1日 星期二

回看來時路 前眺未知處(十三)

我們在花蓮那棟老舊的日式平房,住了不算短的時間;從我近兩歲一直到小學一年級才搬離。在那幾年發生的一些事情,留在記憶中是五味雜陳的;快樂有趣佔多數,但也有不愉悅甚至有點不堪的。能記住的不超過十件。在這篇裡的幾件雖有點平淡瑣碎,無啥驚人之處,但也許在自己更老時回頭讀它,說不定仍能帶來一絲絲回到過去的欣喜。

在逃難期出生的我在嬰幼兒期是體弱多病的,因此一到台灣父母就忙著給我補身體。他們連著買一種從英國進口的乳白魚肝油,逼著我每天都要吃一匙。那種黏黏稠稠有強烈味道的東西,簡直太難下嚥了!每天我都為了這刻的到來而壓力沈重,天天到吃的時候都和母親有爭執;但是回回不管我如何抗拒,母親從不投降,最後還是得吃。

如今想來,當時那麼多人深信那種東西對身體有益,也花與收入不成比例的費用去購買它。是不是真的那麼有益可能並不太確定?服用期的頻率,長短與數量如果不對都可能對身體造成副作用如頭髮稀疏等;而能得到醫生或專家指導的又有多少?

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能顯出母親個性特點的在我最早的記憶當中,還有一件;也是兩歲多時,有一天,我在家門口附近與幾個年齡較長的孩子們玩耍,可能看見有人摘花圃裡的植物放在嘴裡吮汁,我年紀太小根本不懂甚麼是甚麼,就跟著模仿,不料,一片葉子放進嘴裡一嚼,馬上難受的哇哇大哭;大概哭聲太突然,幾個大孩子嚇得愣在那,母親聞聲衝出門來,看我嘴裡有東西,馬上用二指挖出,然後問那些較大的孩子,知不知道我摘的是甚麼葉子?有小朋友指出一種,母親二話不說,即刻摘了一片,放進自己嘴裡,嚐嚐,然後吐掉,之後迅速帶我回家把我清理一番。
她這個不加思索即刻親自嚐試的動作,留給我深刻印象至今仍存。如果那個當下我是母親,我敢不敢即刻自己也嘗一下,真的很難說!

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大概在我四歲多時,有一天母親接到一個電話,掛上電話後,對我們說:...等一下有人要來我們家,給你們打預防針,我去把房子收拾一下...,我聽後,並不瞭解什麼事情要發生,但就有一種莫名的害怕感覺;越接近那些人要來的時間就越覺得恐怖。等兩位穿著軍服,背著藥箱的人一進門,我就開始放聲大哭,這一哭,母親,那位軍醫及助理都忙著過來哄我,可越哄我就哭得越厲害。還記得,那時的心思是想以大哭來阻止他們打算對我做的事。那位軍醫其實非常和善又很有耐心的一直試著安慰我,想方設法去除我的恐懼感;但是看著藥箱裡的針筒,聞著消毒水的味道,我實在很難安靜下來;不但越哭越兇,竟還開始駡醫生髒話。母親馬上責備我,也開始失去耐心,在折騰了好一陣子,最後還是得脫掉一支袖子讓醫生扎針。很快的,醫生說:好了。吖!就好了?我忽然內心覺得很自責;那麼快又沒什麼痛,剛才幹嘛那麼歇斯底里?大弟若無其事的老早打好了,只有我卻如此難搞,讓大家都費了那麼多的心力。

已近一甲子過去了,想來仍自責!

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還是在那棟老房子裡,我近五歲時,二弟已經出世。他是生在一個颱風夜,父親便給了一個和那個颱風同音的名字-“莅泰”。

兩男一女,三個小蘿蔔頭的房子已經夠熱鬧了, 而有一天有位父親的朋友送了一公一母的兔子給我們,說:小孩喜歡小動物,你們家小孩多,有兔子養着,會給孩子帶來許多樂趣...;結果,來了以後一發不可收拾。牠們繁殖之快,令人咋舌!一窩一窩的生,沒多久滿房子都是大大小小,各色花色的兔子每天在房子院子跑上跑下,到處亂竄;起碼三十多隻。母親餵牠們吃的空心菜也得越買越大量,而清牠們的排泄物也是一項不勝其煩的工作。雖然如此,好一陣子父母並未處理兔子,也不送人也不賣;不知是送不掉還是不知如何處理。

有一次,不知哪代的一隻母兔,竟然沒找隱蔽的地方生小兔;牠就在走廊一面靠牆的舊黑板後面生了一窩。我們姊弟在玩耍時,發現了那窩新生的兔子,便移開黑板,仔細的瞧瞧那些沒長毛的一隻隻粉紅色小東西。也許這個舉動被母兔看見了,或牠回來發現什麼被改變了,第二天一早,當我們好奇再打開黑板想看時,老天哪!!!一窩血肉模糊的小兔,全被母兔給咬死了!
這真給我們上了震撼的一課。母親告誡:...從此,我們知道了,新生的兔子不可以去看去打攪,否則觸怒了母兔,就是這個下場...。... 我們那天都黯然神傷!...

那麼多兔子陪伴了我們多久已不記得。只記得搬家前幾天,有好幾個人前後來家裡抓兔子;有的帶走一對,有的帶走好幾隻。最後總算是處理了所有的兔子。


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私たちは花蓮のあの古い日本式の平屋に、しばらくの間住んでいた。私が二歳ぐらい
から小学一年生まで居て、引越した。その数年間に起きたいくつかの出来事が記憶に
残っている。楽しいこと、つらいこと、苦しいことなどいろいろ経験した。大半は愉
快で面白いものであるが、不愉快で耐え難いものもあった。覚えているのは十件ほど
だ。ここに記載したものはありきたりの些細なことであり、取り立てて驚くべきもの
でもない。しかし、おそらく私自身この先さらに年を重ねたのちに読み返してみる
と、子供の頃に帰る喜びを少し得られるかもしれない。

逃避行の最中に生まれた私は、幼い頃身体が弱く病気がちな子供だった。そのため
に、両親は台湾に渡ってすぐ私に栄養を与えようとした。彼らはイギリスから輸入し
た乳白色の魚の肝油を続けざまに買ってきて、私に毎日無理やり一匙飲ませた。その
ねばねば、どろどろした強烈な味の肝油は、飲み込むのが本当に大変だった。私はそ
の時刻が来ると、気が重くなり、毎日毎日、飲むときはいつも母と言い争いになっ
た。しかし、毎回毎回、私がどんなに拒んでも、母は降参したことはなく、最後には
やはり飲まなければならなかった。

今思えば、当時、多くの人がその種のものが身体に有益だと深く信じていて、収入と
は比較にならないほどのお金で購入していた。本当にそんなに有益なのかどうかは、
その実はっきりしていないのではないか?服用の頻度、期間の長さ、数量がもし間違
っていたら、副作用が起きることもありうる。たとえば、頭髪が薄いなどの。また、
医者や専門家の指導を受けたものはどのくらいあっただろうか。

私の最も古い記憶の中で、母の性格の特長をよく表わしている出来事がもう一つあ
る。それも私が二歳くらいの時のことである。ある日、私は家の門の近くで数人の年
上の子と遊んでいた。おそらく、誰かが畑の植物を摘んで口に入れ、汁を吸ったのを
見たのだろう。年端も行かない私は何が何だか分からず、ただ真似をして、一枚の葉
っぱを口に入れた。ところが、咬んだとたん、わあわあと大泣きした。突然泣き出し
たので、数人の大きな子たちは驚いてぽかんとしていた。母は泣き声を聞きつけて飛
び出してきた。私の口の中に物があるのを見て、すぐに二本の指で掻き出した。その
後、大きい子たちに私がどの葉っぱを摘んだか知っているかと尋ねた。一人の子があ
る葉を指さした。母は一言も発することなく一葉つまんで自分の口に入れ、咬んでみ
てすぐに吐き出した。その後、すぐに家に連れ帰り、私の手や口をきれいに洗った。
母のこのとっさの判断で、即座に自分で食べてみた行動は、今でも印象深く心に残っ
ている。もし、その時私が母の立場だったら、同じような行動がとれるかどうか、全
く言い難い。

私が四歳ごろだったか、ある日母は一本の電話を受け、受話器を戻して私たちに言っ
た。「しばらくしたら、あなた達に予防接種をする人が来ます。私は部屋を片付けま
しょう。」私は聞いた後、何が起ころうとしているのか理解していなかったが、わけ
の分からない恐怖感があった。その人たちがやってくる時間が近づくにつれて、ます
ます恐怖を感じた。軍服を着て薬箱を背負った二人が入ってきたとたん、私は大声を
上げて泣き出した。母とその軍医と助手は慌てて私をあやしたが、あやせばあやすほ
ど私は激しく泣いた。今でも覚えているのだが、あの時の気持ちは大声で泣くこと
で、彼らが私にしようとしていることを阻止するつもりだった。あの軍医は実は優し
く、辛抱強く、ずっと私を慰め、いろいろ思案をめぐらして私の恐怖を取り除こうと
した。しかし、薬箱の中の注射針を見、消毒液の臭いを嗅いで、私はどうにも落ち着
くことができなかった。ますます激しく泣き、あろうことか、汚い言葉で医者を罵り
始めた。母はすぐに私をとがめ、母の我慢も切れ始めた。しばらくはこの状態を繰り
返し、最後には私の袖をまくり、医者に注射をさせた。とても速い。医者は言った。
「終わったよ」「えっ!もう終わったの?」私は突然自分を責める気持ちになった。
こんなに速く、何の痛みもなく、ついさっきまで、どうしてあんなにヒステリックだ
ったの?すぐ下の弟は何もなかったかのようにとっくに終わっていた。ただ私だけが
こんなに手こずってみんなに気苦労と骨折りをさせてしまった。

あれから、すでに60年も過ぎようというのに、思い出してもなお自責の念にかられ
る。

さらに、その古い家で、私が5歳ぐらいの時、二人目の弟が生まれた。彼は台風が来
た日に生まれたので、父はその台風と同じ発音の「莅泰」という名前を付けた。

男二人、女一人の幼子三人の家はとてもにぎやかだった。そして、ある日、父の友達
が雄雌一対のウサギを私たちにくれて、言った。「小さい子供は小動物が好きです。
お宅は小さい子が多いので、ウサギを飼うことは子供たちに多くの楽しみを与えてく
れます。」結果はというと、ウサギが来てからは状況が一変し制御不能となった。ウ
サギの繁殖の速さは舌を巻くほど!一代一代と生れて、短い間に部屋中、大小のウサ
ギでいっぱいになった。いろいろの毛色の混じったウサギが、毎日部屋の中や庭を上
がったり下りたり、至る所走り回る。少なくとも30匹はいた。母はウサギに食べさ
せる空心菜を、前よりも一層大量に買わなければならず、また、排泄物の片付けも面
倒でならない仕事だ。それでもしばらくの間、両親は決してウサギを処分しなかった
し、人にあげることもなく、売ることもなかった。多すぎて人にあげきれなかったの
か、それとも、どのように処理するのかわからなかったかは不明だが。

ある時何代目かわからないが、一匹の雌ウサギは隠す場所を探さないで、子ウサギを
産んでしまった。廊下の壁際の古い黒板の後ろで産んだ。私達兄弟は遊んでいる時
に、その生まれたばかりのウサギを見つけた。すぐに黒板を移動して、それらの毛も
生えていないピンク色の小ウサギ一匹一匹をじっと見た。おそらく、その様子を母ウ
サギが見ていたか、あるいは何か変化があったことに気付いたのか、次の日の早朝、
私たちが興味津津で黒板をどけて見ようとした時、ああ、神様!!めちゃめちゃに傷
つけられて血だらけになった子ウサギたち。全部母ウサギにかみ殺されていた。これ
は私たちに心を震撼させるほどの教訓を残した。母はたしなめるように言った。「生
まれたばかりのウサギを見たり邪魔をしたりしてはいけませんよ。そうしないと、母
ウサギを怒らせてしまい、こんな結末になってしまいます。わかりましたね。」あの
日、私たちは悲しくて心ふさがれ意気消沈してしまった。

あんなに多くのウサギがどのくらいの期間いっしょにいたかは覚えていない。ただ覚
えているのは、引越しの数日前、たくさんの人が前後して我が家に訪れ、ウサギを掴
み、ある人は一対、ある人は数匹持って行った。最後にはどうにかすべてのウサギが
片付けられた。