2012年1月31日 星期二

瓶裝醋泡海鮮

不能說好不好吃,只能說別有風味

上面的評語只為紅蓋子的,因為我吃過。藍蓋子的以後介紹



第一次在德的 “缽樂會“ (potluck party)

兩天前去一位研究所學者在欸蘭根附近鄉下的房子,參加一個小型慶祝中國春節的帶菜派對。我之所以貼出這幾張照片是想讓我的親朋好友及學生們看看這邊鄉下房子及感覺一下這種party的氣氛。

兩位台灣來的知名兄弟學者

另兩位學者手中都有一杯當地新鮮啤酒

左為研究古代中國右為研究古印度的兩位學者

幫忙準備晚飯

一堆學者在燒柴火的暖爐前玩跳棋

剛買回來本地釀的新鮮啤酒,上面仍浮著許多泡泡

2012年1月28日 星期六

新住處的裡與外(三)

從陽台看後面的小雪景

這路口進去走五分鐘石板路就到家

滿頭滿臉鳥屎的威武石獅子

廣場旁的路

一家老旅館

廣場的噴泉

陽台向外看的大雪景

新住處的裡與外 (二)

門 讓我覺得有點特殊,好像每扇門都是用一大塊實木做的。手把也是又粗又牢。一個不大的兩層樓建築,從外面進到自家房要經過四道門:進建築物的,上完樓梯的,進入門區的, 之後才能到自己單位的門。




上完樓梯面對一扇,裡面又是一扇,最裡面右邊才是家門

新住處的裡與外

這種暖氣讓屋子保持足夠的溫度

小小的餐室

簡單方便的廚房

冰箱釘在木殻子裡

臥室,客廳,書房全部共用一空間

客廳部分

2012年1月26日 星期四

頭幾天在欸蘭根

2012年一月17號下午到欸蘭根時天氣不錯,到目的地人文研究所時計程車司機不確定的在附近繞了兩圈,還好所裡秘書皮特拉女士注意到,便走到屋外空地來接我們。互相握手自我介紹後,她第一句話就是:「你們大概累壞了吧?」「我知道這一趟好遠...」,還蠻有人情味的。之後,領我們進入所內,還熱心幫我們拉大皮箱入屋。

在她辦公室,她為我們大致介紹了所內情況,我們如何開始生活,需辦的各種文件手續等。也與所長與那天出現的幾位研究員打了招呼。

初次會見完後,她又幫我們用她的車把四個大皮箱,幾件隨身包,連人帶東西的載到我們要住的大學招待所(Guest Houses)。我們的房是一個帶傢具,廚具的一個大長方型房間,兩頭有窗,一頭有一個小陽台。房內隔成一廚,一廁,一浴室,一小餐室及臥室連客廳的主要部分。對兩人住來說,空間是挺夠的,只是臥,客不隔開,還需適應一下。

她又交代了幾件事,告訴我們有任何問題,就給她打電話...等,在我們非常感謝聲中離去。她一走我們馬上面臨民生問題;雖然爐灶,廚具都有,但一切都是空的,只有被逼得非出去找吃的不可。累都已經累死了還得在街上遊蕩找飯館,還好不算太遠的地方有一家廣東人開的中餐館,在裡面吃了有湯的熱食,小小的休息了一下也補充了點元氣。

18號一大早就得去會一位在 “ 歡迎中心 (Welcome Center)” 任職的欣西雅女士,整個上午都是她帶著我們辦戶籍登記,銀行開戶,圖書館卡,健康保險...等。她精神奕奕,健步如飛,在城區裡不同的機構,穿梭來去,上樓下樓她走得輕鬆自若;可我卻是拖著疲憊的身子,酸麻的腿,可說是勉為其難的跟著她一起辦完了該辦的事。好幾次都希望那些建築物若能有電梯或電扶梯該多好!但這小小的古城要保持古風味,搭電梯大概是奢想。

從19號到24號是灰色的六天,外在天氣不好,下雨下霙下雪刮風...什麼都有。聽說有些地方鬧從來沒有過的洪水。極端天氣在地球上處處都在發生,難免令人暗慮。
內在呢,旅途的疲憊,時差的適應,尤其是住的地方不能即刻無線上網;要等主辦人某天上班,還要填單子經批准...等等等的,簡直讓我焦躁得無法自制。一直到25號才獲准並得到一個免費的路由器,才上成了網。還是覺得不可思議要花這麼多天才解決上網的問題。而這個地方算是歐洲的矽谷,是大學城,是德國的醫學工業重鎮。









照片部分 (旅途報告)

從這個梯子走下到地上

快到紐倫堡從飛機上看德國的城鎮

飛機在降落中

小巧可愛的紐倫堡機場

2012年1月25日 星期三

旅途報告

這次從美國到德國是一個相當累人的行程。累是因為旅行社安排換機時間都不充裕。只要前班機稍有延遲就得高度緊張的在機場飛奔。而我們一路就碰到這種狀況。

2012年一月16號晚上8點多,從俄亥俄州哥倫布斯市機場起飛時就延遲了,到華盛頓DC轉機,連跑帶衝的,到達登機門時,已經快登機完畢了。帶著又餓又渴又酸又喘的身體,上了飛機。
機裡倒是很有意思,各色人種,各種語言都有。

起飛近兩個鐘頭後,終於開始送餐。我在其他人之先,得到特別要求的素食餐。那大概是我無數次搭飛機以來最難吃的一次機上正餐。非常失望。

約近八小時到了德國的法蘭克福機場。我們這個這麼大橫越大西洋的飛機,到達後卻沒有空橋可走;男女老少,拄著拐杖的,抱著孩子的,拿著大包小包的,通通要從飛機門走移動梯下到地上,然後登上三聯接駁車,東拐西彎的好一陣子才到入境廳。

機場內給我的第一印象是簡單素樸,不寬敞不新穎。但移民官倒是沒有官僚面孔,對一下護照相片,講兩句未來要辦簽證...等,不到半分鐘就通過了。

出移民關又心情沈重的以為要像大多數機場領出行李再掛入國內航線,如果是那樣我們一定是趕不上該搭的班機的。結果被告知行李會直接掛到目的地--欸(ei  r)蘭根(Erlangen),這讓我們鬆了一大口氣!但是時間仍然緊迫,找到登機門時又像在DC一樣,已經快登機完畢了。

終於坐進了最後一程的班機。這德國國內班機給我的感覺很不錯,機內明亮寬敞,皮質座椅線條簡單,坐著很舒適。機長報告說,機械系統有點問題,要等檢驗人員來檢查後才能起飛。又是延遲。空服員來發給每人一大號的巧克力條(candy bar),要我們邊吃邊等。這在別的航空公司恐怕已經不再發生了。因為每人一條這種糖條,本錢也不低。

這最後一程在紐倫堡(Nuremberg)落地時真讓人如釋負重!很容易的領齊了行李。在機場換錢,美金換歐元,匯率加手續費,拿到的數目真讓人心疼!搭了一部計程車,從紐倫堡機場到欸蘭根研究所辦公室,車費加小費,四十歐元。

這一趟的飛奔追趕,無眠無休,讓我們到達目的地時,已是疲累已極,到了隨時可能癱軟倒地的程度。

2012年1月12日 星期四

益活菌

我雖然以前對生物的課程非常感興趣,後來年紀稍長對養生也很重視,但畢竟所有懂得的只是很少很少的皮毛而已。我是完全沒有資格對這樣專門的領域做任何的置喙的,但是最近在我身上發生的實際經驗,讓我想說幾句話。我下面說的是很粗略的一種敘述與報導,是從與好友相聚時閒聊中得到的資訊。如果有錯誤或不完整的地方還請好友或專家不吝指導,我可以隨時修改。

在日本宮崎,一位好友的先生Dr. Maeda是一位微生物學家,任教於宮崎大學。幾年前因為蜜蜂的急劇減少,他應日本農業部門的要求做了研究,希望能找出解決的辦法。他在諸多的菌種中尋找,終於從一處地底湧出的泉水中找到一株菌,經過培養與實驗,最後證明這株菌可以大大提高人,畜的免疫力。實驗的成果,不但得到政府頒發的獎章與獎勵,電視公司的專題報導,也嘉惠了無法計數的蜂農與畜牧業者。最讓我驚奇的是這株菌對人的功效是那麼的明顯。

我們這次的搬家,事實上是一次滿艱巨的工作,一是住了十四年的房子,清理起來實在費力,二是教書的工作完全無法擱下,一直教到上飛機的前一天。在這種兩頭支出的情況下,壓力之重 難以言喻。大約就在搬家前兩個多月時,和好友秋燕無意中在一次聚會中談到她們公司快要上市的專利產品,一種益活菌。我主動要求可否讓我服用一些,看看能否幫助我體力與精神,應付這即將來到的艱困任務?她很慷慨的給了我幾種不同口味的提煉粉末;我遂每隔兩三天 服一茶匙。才服了幾次,就明顯感覺不再那麼容易累,而在最後的兩星期,因為事情實在太多,有時一天只有機會吃一餐,不但如此,當時感冒在流行,四周的學生與老師各個都在感冒,我這樣的沒吃沒喝又加上如此的工作量,不但沒被傳染感冒,體力竟能撐到最後一天而沒問題。

這在以前是不可想像的,不是累倒也會病倒。故事還沒完呢,以前回美國總有幾天適應時差滿難過的,而這次完全沒有時差的適應問題,輕描淡寫的就適應過來了。讓我內心對這種益活菌不禁嘖嘖稱奇!!!

因為我自己的親身經驗,讓我沒有辦法不寫這篇。只期盼他們的產品及早正式上市,嘉惠大眾。

下面貼上的網頁,可以讓人們多瞭解關於微生物的知識。

http://www.ted.com/talks/lang/zh-tw/bonnie_bassler_on_how_bacteria_communicate.html

還有好友公司有關的網頁

http://www.bioproject-international.com/en/

「善玉菌」



私は以前、生物に関する学問にとても興味があった。今は、やや年をとってきて命
健康に関心がある。しかし、いずれにせよ知っていることはほんのわずかなもの
にすぎない。このような専門的な分野について、口ばしをはさむ資格は全くないの
である。だが、最近私自身が実際に経験したことがあるので、それを少し話
したいと思う。今から話すことは、友人と集まっておしゃべりをしている時に得た
情報や報道であり、とても大雑把なものである。もし、間違いや不完全な部分が
あれば、友人や専門家の方々、是非ともご指導頂きたい。いつでも訂正する
つもりである。

宮崎の友人である前田博士は微生物学者である。宮崎大学で教鞭を執っている。
数年前ミツバチが急激に減少したため、彼は日本の農業関係者の求めに応じて、
その解決方法をさがす研究をした。いろいろな菌種の中から、ついに、ある地底
から湧き出る泉水のなかに一つの菌をみつけた。培養と実験を経て、
とうとうその菌が人や家畜の免疫力を大いに高めることができると証明した。
実験の成果は、政府から賞をもらっただけでなく、テレビ報道によって、
数えきれないほど多くの養蜂家や畜産業者に恩恵をもたらした。
最も私が驚いたことは、この菌の人に対する効果が以下のように明
らかだということだ。

私達の今回の引越しは、実際、並大抵のことではなかった。一つには14年間
住んだ家であり、きれいに片づけるのに骨が折れた。二つには大学の授業を
途中でやめてしまうことができなかったことで、飛行機に乗る前日まで
教壇に立った。この二つの逃れられない状況下で、ストレスは例えようもない
ほどだった。引越しの2ヶ月ほど前、友人(秋燕)達との集まりの時、
話の流れで、彼女の会社がもうすぐ売り出す予定の特許品が話題になった。
それは一種の善玉菌(有用微生物)である。私はそれを少し
服用させてもらえないだろうか。これからやってくる艱難に備えて、
私の体力と精神を支えることができるかどうか試してみたいと頼んだ。
彼女は気前よく、味の違う数種類の抽出加工した粉末をくれた。
私はすぐに二、三日毎に茶匙一杯服用した。何度か服用しただけで、
もうそんなに疲れることはなくなったとはっきり感じた。そして、
最後の2週間はやるべき事が本当にたくさんで、一日に一食だけという日も
あった。このような状況であっただけでなく、そのころは風邪が流行っていて
周りの学生や先生はみな風邪をひいていた。私はそんな飲まず食わずで、
さらに仕事もこなし、風邪がうつらないだけでなく、体力はなんと
最後の一日まで持ちこたえることができ、何の問題もなかった。

これは以前では想像できないことである。いつも病気になって倒れるか、
疲れ果てて何もできなくなってしまうかだった。
この話はまだ終わらない。以前、アメリカに帰るといつも数日は
時差に慣れるのに難儀した。しかしながら、今回は全く時差の心配
はなく、あっさりと適応した。
私は内心この善玉菌のすばらしさを称賛せずにはいられない。

私が身を以て経験したことなので、是非この文章を書いて、
読者にお知らせしたいと思った。ただただ彼らの製品が早く
正式に売り出され、多くの人々が恩恵に浴すことを願うばかりだ。



以下のホームページは微生物の知識についてより理解することができる。

http://www.ted.com/talks/lang/zh-tw/bonnie_bassler_on_how_bacteria_communica
te.html


友人の会社のホームページは

http://www.bioproject-international.com/en/



日訳 後藤香代子




2012年1月11日 星期三

回看來時路 前眺未知處(八)

關於「天平輪」在父親的回憶錄中繼續這樣記述著:「『天平輪』自黃埔在槍林彈雨中離開碼頭,停在江中時,船長即下令把被槍傷,已死亡的屍體丟下河裡去,有些沒眷屬的,被丟的不少;但有眷屬或親人的,就不願意丟下去,向船長請願准到香港後,自動搬下船去。在這亂世,船長當然也無可如何了!船到了虎門附近停下,傷亡的下去不少,還有許多人因為船上太擠,又無飲水食物,也紛紛離去,大概有半數下船了。是屬於部隊方面的人員,或無力自行設法的人員,仍在船上,人數約略不下二千人。


在當時,我們是有能力自行購船票或飛機票去台灣的,但是前面已經說過,不管船票或飛機票,都沒有把握能買到,此其一,這『天平輪』原係撥給五十四軍辦事處使用的,由李團長指揮,李團長告知:待下去的人員下清之後,馬上可以開船,大約三至四天,就可以到高雄港登陸了!只受三,四天的罪,就可達目的地,我們又何必急急於離開可靠的船呢?


船在虎門停了兩天再起錠,起錠後,我在船長會客室一指揮官的臨時辦公室,會見了李團長,他愁眉不展坐在沙發上歎息,我問他:『李團長,船既開了,三,四天就可到台灣了,你為什麼反而愁眉苦臉呢?』『老兄哪裡知道啊!剛奉到命令,此船另有任務,要先開到海口,把船上的人放下之後,再去湛江市接運一批財物回海口交卸之後,再送我們到台灣!』『那要等多久呢?』『誰知道哇?快則一兩週,慢嗎?那就看大家的運氣了!』『命該如此,也是身不由己的事!只好等吧!』彼此淒慘地一笑。船在汽笛無力鳴放中,慢慢朝海南島駛去...。


輪船慢慢地航了兩天,到了海口的港外。海口是沒有停靠海洋巨輪的碼頭的,所有的大輪都停在海口港港外,輪船隨海浪晃盪的厲害,在上面的人均難受至極。


船何時啓程去湛江市?上面仍無明確之命令;我們只好 等!等!等!


船與船上的人最傷腦筋的就是「水」的問題。船為甚麼不快開?因為自廣州所裝之煤與水,到海口後便已用光;用光了便需向海口港務司令部請求補給,司令部的能力有限,而那時停在海口港外的大船有十餘艘之多;百餘噸的補給船,今天補給了煤,過兩天水又光了,待再補給水,煤又光了!所以天平輪在海口港外一等就等了二十餘天。


在炎熱的海南島,我們二十幾天沒有正式洗過澡,僅靠由船邊上用小桶吊些海水擦擦汗污。喝的水呢?就靠排隊到機房去接那機器上流下的蒸餾水,要一,二十分鐘才能接一漱口盅。好在我們的同伴多,可以輪流去排隊,不致渴死。


天平輪在海口港外停了約二十天後,奉命至廣州灣湛江市去接運一批物資。」
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父の回想録の中で、「天平輪」に関する記述は次のように続いている。:「弾丸が雨のように乱れ飛ぶ中、「天平輪」は黄埔から出港し、川の中ほどで停船した。その時、船長は、弾に当たってすでに死亡した死体を川の中に落とすようにと即座に命令を下した。家族のいない死体の多くは落とされたが、家族や近親者がいれば、彼らは落とすのを嫌がり、「そのまま香港まで行って、自分で抱えて下船したい」と船長に願い出た。しかし、この乱世では船長は香港まで連れて行くわけにもいかない。船が虎門付近まで来て停船した時、死体は降ろされ、負傷した者の多くが下船した。船の上はとても込み合って、飲食物もないので、多くの人が次々に下船していった。およそ半数の者が降りた。部隊に属する者や自力ではどうにもできない者はそのまま船に残った。その数は2千人を下らなかった。

当時、私たちは自分で船や飛行機のチケットを買い台湾へ行くだけの財力はあった。しかし、すでに前で述べたように、船でも飛行機でもチケットを買える見込みはなかったので、虎門で船を降りなかった。また、この「天平輪」はもともと五十四軍辦事処(軍事務所)使用のために割り当てられたもので、李団長の指揮下にあり、李団長は以下のように告知した。「下船する者がすべて降りたら、すぐに出港する。およそ三、四日で高雄港に上陸することができるであろう!」私たちは、ほんの三、四日難儀するだけで目的地に到着することができる。焦って、この頼りになる船を離れる必要があるだろうか?と思ったのである。

船は虎門に二日間停泊して碇を上げた。私たちは船長の応接室(臨時の指揮官室)で李団長と面会した。彼は心配そうにソファーに座り溜息をついていた。私は彼に聞いた。『李団長、船はすでに出航して三、四日もすれば台湾に到着するというのに、あなたはなぜ浮かぬ顔をしているのですか?』『あなたはどうしてわかるのですか?私はたった今命令を受け取りました。この船は別の任務ができました。まず、海口まで行って船に乗っている人達を降ろした後、湛江市に行き、財貨・物資を受け取って、海口に戻り、その荷を降ろした後、船は私たちを台湾まで送り届けます。』『それはどれくらいかかりますか?』『わかりませんねえ、早ければ一、二週間、もし、遅いなら...それは、みなさんの運次第です。』『運命とはこういうものですね。思い通りにならないものです!待つほかはありませんね。』二人は互いに悲しそうに苦笑した。汽笛が力なく鳴る中、船はのろのろと海南島に向けて進んでいった...。

汽船はゆっくり航行し、二日後には海口港の外に着いた。海口には海洋大型船が接岸できる埠頭がない。すべての大型船はみな海口港の外に停泊していた。船は波のうねりでゆらゆらとはげしく揺れ動き、船上の人はみなとても難儀した。

何時になったら湛江市へ出港するのか?依然として上層部からの明確な命令はなく、私たちはただ待って、待って、待っているだけだった。

船と船上の人々が最も頭を悩ませるのは「水」の問題だった。船はどうして早く出港しないのか?広州から載せてきた石炭と水は、海口に到着してすぐに使い切ってしまった。なくなってしまったので、すぐに海口の港湾事務所に補給を頼んだが、司令部の能力にも限りがあった。また、その時海口港外に停泊している大型船は十数隻の多さだった。百トン余りの補給船が、今日石炭を持ってきても、二日も経てば水がなくなり、水の補給を待っていたら、また石炭がなくなってしまう状況だった。そんなことで「天平輪」は海口港の外で、二十日余りも待っていた。

炎暑の海南島で、私たちは二十数日、身体をちゃんと洗うこともなく、ただ船べりから桶をつるして汲み上げた海水で汗や汚れを拭くだけだった。飲み水はというと、機関室に行って並んで、機械の上を流れてくる蒸留水をコップでうけるだけだった。十から二十分かかってやっとうがいコップ一杯になるだけだ。幸いにも私たちは仲間が多いので、交替で並ぶことができ、喉が渇いてたまらないということはなかった。

「天平輪」は海口港外に約二十日間ほど停泊した後、命令を受けて広州湾湛江市に物資を受け取りに行った。」
翻譯:後藤 香代子 


幾張近照(三)

一個就在公婆家旁邊的自然公園的冬景。
照到了幾隻優遊覓食的火雞,給我的散步帶來小小的驚喜。






幾張近照 (二)

今冬美國東北很暖和,到處仍可見翠綠的草坪,與往年處處白雪皚皚,很不一樣。
從公婆家照對面人家的景象。



幾張近照

在妹妹家與這兩條狗為伍了幾天



2012年1月6日 星期五

對比

搬家前的雜亂與搬家後的清靜空無是多麼大的反差。

特別想一提的:一直到搬離宮崎都沒有機會請好友秀娥姐來家裡坐坐,感覺非常抱歉與遺憾。現貼出這些照片,秀娥姐當可理解與原諒我。







回看來時路 前眺未知處(七)

正在大家焦躁無助之際,一部小轎車忽然停住,車裡一人一揮手,後面跟著的一輛也停下了。前車裡後座的人探頭揮手叫喚父親上車。父親一看是軍辦事處李禮團長,這真有如天降救星。這團人就這樣在車裡坐著,在車外掛著,幸運的被載到黃埔碼頭。

父親在他的回憶錄中這樣記述著:「進入黃埔碼頭 停下時,碼頭到處人山人海,船仍在江中,沒有靠岸;因為該船是撥給五十四軍辦事處使用,由李禮團長指揮的。李禮團長還沒到之前,船是不敢靠岸的!李禮團長要原在辦事處登記之後的官兵,在碼頭上集合,準備待船靠岸後,先上船維持秩序,並分派檢查登船各單位之證件及清點人數。一切準備,均合乎行軍之規定與要領。當船慢慢將靠近岸上之際,石牌附近的槍聲大作,碼頭上亂作一團。此時,碼頭上的倉庫被人打開了,一些亡命之徒盡往倉庫裡奔;有的抱一大堆軍毯的,也有的拿很多白被單的,拿軍服的很少,白米,食鹽更沒人要。槍枝也成為棄物。像猴子搬玉米一般,裡面的往外面搬,擺到外面的又被別人搬走了。丟得滿碼頭都是。從這裡真可看出人性之貪婪。


船靠岸後,五十四軍辦事處的人員剛上去,岸上的人一哄往上攀,使登船梯擁擠不堪。李團長見已無法控制,前面派幾人擠,讓兩位太太先擠上去了,但我們無法擠到前面,李團長就要我們幾個從船邊上的網子上爬上去,告訴上面警衛的官兵,讓我們上去。大家見我們爬網子,前後也跟著爬。等我們被引到船長室外面的走廊下,僅僅有坐的位置,但能避風雨。除了船長室之外,算是較好的地方。這時,倉底下每一層都擠滿了人,連甲板的每一部份都擠滿了人。只有站或勉強可坐的位置。


待船上實在擠不上了,船才啓錠離岸;把登船梯放下的時候,仍在梯上沒有爬上,或沒有捉住網繩的人,都掉到河裡去了,估計不下百餘人;慘叫之聲,不忍聽聞。往網上爬的人,也因為人擠人,「砰!砰!碰!碰!」往下掉,好像不是娘生的一樣。這些的人命,哪裡比得上螞蟻啊?在岸上沒有上成船的軍人,手上有武器的,就憤怒的向船上開火。船剛移到江中,還在步槍射程之內,共軍的先頭部隊已到岸邊,朝著這條最後離開的船射擊,在邊上的人,又被射倒了不少...。


這是條超齡的貨輪,排水量六千噸,名叫「天平輪」,是黃埔港撤退的最後一條船;照平常載運量言,可運兵一千餘人,經到虎門約略估計,上船的在三千五百人以上,三天內因被擊死,重傷致死,嚇死之後,丟到海中的屍首,聽說也近三百人左右。這是我面見的最大災難!

李禮團長之大恩大德是父母親終生難忘與感激的。
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助けてくれる人もなく、一行が焦っていたその時、一台の乗用車が突然止まった。
中の一人が手を振ると、後について来た車も止まった。
前の車の後部座席に座っていた人が、頭を突出し、手を振って父に車に乗るように
と大声で叫んだ。父が声のする方を見ると、それは軍辦事処(軍事務所)
の李礼団長だった。正に天から降り立った救いの神だった。一行はこのように
して車に乗り、また車の外にしがみついて、幸運にも黄埔埠頭まで乗せて
行ってもらった。

父は彼の回想録の中でこのように記述している:「黄埔埠頭に入って停車した時、
こは至る所人で埋まっていた。船は川の中ほどにいて、まだ接岸していない。
この船は五十四軍辦事処使用に割り当てられたもので、李礼団長の指揮下にあった。
よって李礼団長の到着前に船が接岸するわけがない!
李団長は辦事処に登録済みの官兵を埠頭に集合させ、接岸後の準備をさせた。
先に乗船して混乱のないよう秩序を保つ。そして、それぞれの団体の乗船証明書の
検査や人数改めの任務を割り当てた。一切の準備は行軍の規定と要領に適ったもの
だった。船がゆっくりと近づいてきた時、石牌付近の銃声が大きく響き、
埠頭は大混乱になった。この時、港の倉庫は人々に開けられた。一部の暴徒と
化した者たちは、みな倉庫に向かって突進した。ある者は山のような大量の
軍用毛布を抱え、またある者は白いシーツをたくさん持っている。軍服を持
っている者は少なく、白米、塩は誰も必要としていない。銃もゴミになった。
サルがトウモロコシを運ぶように、中の物は外に運び出し、
外に並べたものは他の人に持っていかれた。港のあちこちは落として行った
物でいっぱいだった。ここから人間の貪欲な姿が見て取れる。

船が岸に着いた後、五十四軍辦事処の要員が乗船して間もなく、港にいた
人々はワッと声を上げてよじ登って行き、船梯子は押し合いへし合いになった。
李団長はすでに制御不能と見て、前方に数人を差し向け、
妻と袁婦人の二人を先に押し上げさせた。
しかし、私たちは前に進むことができず、李団長は私たち数名を船の周りの
網から這い上がらせようとした。上方の警備に当たる官兵に私たちを
引き上げるように告げた。周りの人たちは私たちが網を上がるのを見て、
前も後ろもみなついて上がってきた。私たちが船長室外の廊下に引き
上げられた時には、わずかに座る場所があっただけだ。
しかし、風雨をしのぐことはできる。船長室を除いて、そこは比較的良い
場所だった。この時船倉のどの階も人でいっぱいだったし、
甲板のどこも人でぎゅうぎゅうだった。立つだけ、または無理やり
座る場所があるだけだった。

船の上は本当にもう一人も乗れない状態になり、船はやっと碇を上げて
岸を離れた。船梯子をはずした時、梯子の途中で、
まだ上がりきっていない者や、網をつかまえ損なった者はみな川の中に
落ちた。その数は100人を下らないだろう。悲惨な叫び声は聞くに忍びない。
網を這い上がってくる人も押し合うために「ドスン、ドスン!ボト
ン、ボトン!」と下に落ちていく。母が子を産むのとは違う様だ。
彼らの命はアリとどこが違うというのか?乗船できなくて岸に残った
軍人は手に武器を持ち、怒って船に向けて発砲する。
船がちょうど川の中ほどまで来ても、まだ小銃の射程内であり、
共産党軍の先頭部隊はすでに岸に着いていて、最後に離岸したこの船に
向かって射撃してきた。船の欄干にいた人の多くが撃たれた。

「天平輪」という名のこの船は耐用年数を超えた貨物船で、
排水量6000トンである。黄埔港を撤退する最後の船であった。
平常時の積載量から言えば1000人あまりの兵を運ぶことができる。
虎門に着いた時の推計では、乗船している者は3500人以上で、3
日以内に撃たれて死亡した者、重傷で死に至った者、
驚き慌てて海中に落ちた死体は300人近くになったそうだ。
これは私の眼前で起きた最大の災難であった。!」

李礼団長の大恩を、父母は終生忘れることなく感謝していた。