2011年6月25日 星期六

"回看來時路 前眺未知處"(五)


父母親的在戰亂中的回家探親,讓祖父母極為欣慰。祖母更是希望父親能留下來; 祖母覺得既然工作已有人安排好,外面又是一片戰爭的混亂,那何妨乾脆留在家鄉,別再在外邊流離逃難了。可是祖父 和大伯 知道情勢並非如此簡單,還是勸父親一夥人及早離鄉。

祖父,大伯, 料到那些盯上父親的人一定認為父母親這幾個人要走也會過完中秋節才走,父母親遂決定在中秋節前來個金蟬脫殼。為了避免被別人知道,又怕被某方面人士攔截,他們選了一天在清晨四時出發。那夜大家都整夜沒睡,半夜二時左右 祖父帶大家在『遂德堂』(家中祭祖的小祠堂)點上香燭,供上祭品後,父親與母親抱著我先向祖宗牌位三叩首,之後再向祖父母叩首。為了這夥人即將遠行討個平安好兆頭,大家只能將錐心的熱淚硬往肚裡吞。

這一叩別,卻成永訣!

後來祖父被囚兩年,在被榨光了所有財產後,被以『善霸』罪名逼死,大伯被殘忍處死,三叔不久也氣鬱過世,全家掃地出門。在家庭經歷如此浩劫之後,祖母仍能忍耐而堅強的活下去,照顧各房二十七位孫兒女們成長,直到八十七歲(1979年)才去世。

在八零年代兩岸獲准互通消息之初,在台北,乍聞祖母已過世,在斷氣時仍不斷呼喚她兩個音訊杳然兒子的名字,兩個中年大男人--- 父親與四叔,閱信中,竟然掩面嚎啕大哭。那種壯觀的悲涼淒楚,直叫天地為之傷,人世為之慟 !
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圖:慟
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戦乱中の両親の帰郷は祖父母をとても喜ばせた。祖母はさらに父が留まる
ことを希望した。仕事はすでに用意されているし、まわりは戦争で混乱して
いるし、いっそのこと、ここに留まったらどうだろうか、また外に出て離れ
ばなれになり、逃げまどうことはないと祖母は思っていた。祖父と伯父(父
の兄)は情勢がそんなに簡単ではないとわかっていたので、父ら一行に早い
うちに故郷を離れるように勧めた。
父に目を光らせている人たちは、父達は中秋節が終わってから出発するに
違いないと思っていると、祖父と伯父は推測していた。そこで、両親は中秋
節の前に人知れずそっと姿をくらませることにした。人に知られないよう
に、また、ある組織の人に邪魔されないようにするため、彼らは日を選んで
早朝4時に出発することにした。その夜、みんな一晩中一睡もしなかった。
夜半の2時頃、祖父はみんなを連れて「遂徳堂」(家の中の祖先を祀る祠)
に行き、ロウソクと線香に火をつけ、お供えをした。父と母は私を抱いて、
まず先祖の位牌に3回頭を地につけて拝礼し、さらに、祖父母に拝礼した。
彼らの遠出が道中無事息災であるようにと、皆は胸に刺し込むような熱い涙
をぐっと腹におさめた。
この別れは永遠の別れとなってしまった。

その後祖父は2年間牢獄につながれ、すべての財産を没収され、「善覇」
という罪名を着せられて死に追いやられた。伯父はむごたらしく死刑に処せ
られた。叔父(父のすぐ下)も間もなく気がふさぎ、この世を去った。みな
すっかりいなくなった。家族のこのような災禍を経験した祖母は、それでも

なお、じっと耐えて生き続けた。それぞれの家の27人の孫たちが大人になる

まで面倒を見て、87歳(1979年)で亡くなった。

80年代、中国と台湾の両政府は相互に消息を尋ねることを許可した。その

当初、父と3番目の叔父は、祖母がすでにこの世を去り、事切れる前に、杳
として音信のない2人の息子の名前を呼び続けたことを知ったとたん、この
中年の大人二人は、なんと手紙で顔をおおって、大声で泣き叫んだ。胸裂け
るほどの大きな深い悲しみは、天も地も人の世も悲しみの底に落とした。

図;慟哭

日訳 後藤香代子

2011年6月22日 星期三

2011年6月18日 星期六

"回看來時路 前眺未知處" (四)


父親帶回了一位『北京』的媳婦,到家的第二天消息傳了出去,不但所有的親戚都來噓寒問暖,連不相干的村里的婦女們也三五成群的前來探望,川流不息,讓老家熱鬧了幾天。這次的拜望公婆是母親這輩子的第一次,也是最後一次。而我也有幸一生唯一的一次被祖母抱過。怎不令人愴然!

母親的智慧,幽默,機伶,果斷與剛中柔的資質與個性,在她生前與過世後這些年,每每憶及總覺得她有許多不平凡之處。如果不是她年幼喪母,生於亂世及年紀輕輕就走進家庭,她很可能會是一位有某種成就的人物。
最近透過大陸天津的舅舅與表弟的幫忙,獲得了較完整的家譜資料,閱後才瞭然,母親那份不凡的基因是其來有自的。

母親的曾祖父就是史稱『鐵脖御史』的陳鴻翊先生,字仲鑾,寧河縣人,祖籍北塘,自道光十八年始(1838年)先後認吏部主事,都察院工科掌印給事中,山西道監察御史。在山西道監察御史任上期間,逢第二次鴉片戰爭(咸豐十年,1860年,英法政府對中國正式宣戰),陳鴻翊多次上疏皇帝,主張加固北塘海防,堅決反對僧格林沁的撤防誘敵的下策,結果未被採納,致使英法聯軍攻陷大沽,侵佔津京,逼迫清廷簽訂一系列喪權辱國條約。

如果他的抗敵主張當初被採納了,晚清及民國的歷史恐都將改寫!
而他堅持自己的主張,冒著被砍頭的危險與王權抗爭,因此獲得『鐵脖子御史』的封號。
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圖:母 (象形字 形藝圖)
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父は「北京」出身の妻を連れて帰った。故郷に帰った次の日に、このニ
ュースは広まった。すべての親せきがやってきて、あれこれと気を配っただ
けでなく、関係のない村の女性たちも三々五々訪ねてきた。人の流れは途切
れることなく数日にぎやかだった。そして、私は幸運にも、生涯わずか一度
だけ祖母に抱いてもらうことができた。ただ一度だけ...どうして悲しみ
嘆かないでいられようか!

母は知恵、ユーモアセンスがあり、機敏で聡明、果断であり、芯は強いが
穏やかな資質と性格を持っている。母の生前と死後数年の間、私はいつも、
彼女は多くの非凡な面を持っているなあと思っていた。もし、彼女が乱世に
生まれ、幼少で母を亡くし、年若くして家庭に入るということがなかったな
らば、彼女は一角の人物になっていたかもしれない。

最近、天津の母方のおじや従弟の助けを借りて、完璧に近い家系図を手に
入れた。母のあの非凡さはその家系から来ていたのだとやっとわかった。
母の曽祖父は歴史上の「鉄脖御史」と称される陳鴻翊である。彼は清咸豊年、
進士になった。字は仲鑾、寧河県の人、原籍地は北塘、道光18年(1838
年)から吏部主事、都察院工科掌印給事中、山西道監察御史の職に相次いで就
いた。山西道監察御史の在任中、第二次アヘン戦争に遭遇した。(咸豊十年、
1860年  英仏政府は中国に対して宣戦布告)陳鴻翊は何度も皇帝に上奏し
た。彼は北塘沿岸の防御を強化することを主張し、僧格林沁の防御地から撤退
して、敵を誘い込む策に断固として反対した。しかし、結果は聞き入れられな
かった。英仏連合は大沽を攻め落とし、北京天津を占拠し、清朝に対し、主権
を失なう屈辱的な条約の締結を迫った。
もし、敵を迎え撃つという彼の主張が、当初受け入れられたなら、清朝末
期や民国の歴史はおそらく書き換えられることになったであろう。
そして、彼は自分の主張を曲げずに打ち首の危険と、宮廷勢力の抗争にあ
えて向かっていった。それゆえ、「鉄脖御史」の名称を拝した。

図 母

日訳 後藤香代子

"回看來時路 前眺未知處" (三)


渡船掌舵要返回東岸,父親知東岸為共軍陣地,便逼吼著舵主往西岸靠。上岸後,獲得一位國軍的幫助,找到兩位挑夫幫挑行李,大家遂往衡山方向趕緊上路。這段是只能靠自己雙腿奔路的。八月天氣不但燠熱也不穩定,大家還得撐著傘趕路。記得小時候父親常向人提及這段經歷說:采霙那時才兩個多月,竟能坐在我胳臂上,小手還緊握著傘柄,跟著大家逃難。在父親的回憶錄中如此記述著:『...我抱著達子(我的乳名)因為她輕,把兩隻小腳套在我短汗衫的口袋中,她的兩隻小爪子,也能握著雨傘柄...』

亂世出生的孩子,沒有穩定安祥的襁褓期,有的只是 得提早接受的動盪與不安。

大家在離開沙田浦走了不到半小時,後面沙田浦的槍聲又大作,兩個挑夫丟下擔子,跪在地上叩頭道:『求求你 老爺!我們要回家看...』他們說完爬起來就往回跑,一下已跑得無影無蹤了。在那種四處既無村落也無人煙的地方,父親只有自己扛起挑所有行李的重擔。母親與袁太太已經走得雙腳起泡,不得不脫了鞋子光腳逃路。就這樣走了六, 七里路,直到碰到一位指點路途的老農人,大夥才在一個小村莊找到了幾位轎伕與挑伕。到了晚上九點才到南嶽市。這天是大家很難忘的一個苦難日,也是父親感覺生平最疲累的一天。在南嶽市等到第三天才搭到車 赴衡陽。之後乘粵漢鐵路徑往廣東的樂昌。
到了樂昌之後,他們寫了一信寄已撤至台灣的五十四軍二九一師。不久收到袁太太先生袁賢祺營長自台中沙鹿鎮覆來的信,並附了四個人入台的入境證。到此大家才都放了心。有了目標再不至有何去何從之苦惱。

這夥人從樂昌回到湖南汝城的老家,探望他們的父母與親人,雖然是逃難當中抓到的一個短暫難得的機會,可卻也是危機四伏的一次行動。因為湘南許多地方已經深度赤化 ; 老家在被土共作為司令部的半年期間,所有糧食與能用的東西,全部被一掃而空。父親此時回鄉,不但被共黨盯上,他以前教過的學生,同事,有好幾位明的暗的,利誘威脅要他答應接受某方面給安排的工作。
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圖:車行於路 (象形字 形藝圖)

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渡し船は舵をきって東岸に戻ろうとした。父は東岸が共産党の陣地と知
って、大声で船長を怒鳴り、船を西岸に近づけさせた。上陸後、一人の国民
党軍の兵士の助けを借りて、二人の荷担ぎ人夫を得て、荷物を担いでもら
った。そして、衡山方面へ大急ぎで出発した。この道を進むには、自分の2本
の足のみが頼りだった。8月の天気は蒸し暑く不安定なので、みんな傘をさ
して道を急いだ。
私の幼いころの記憶では、父はよくこの時の経験を人に話していた。「采
霙(私)はあの時、生後わずか2ヶ月なのに、私の腕に座ることができ、さ
らに、小さい手は傘の柄をかたく握りしめてみんなと一緒に逃げていた。」
父の回想録の中に、このような記述がある。『私は達子(私の幼名)を抱い
ていた。彼女は軽いので、2本の足を私の半袖ワイシャツのポケットに入れ
て、小さな2つの手はなんと傘の柄を握っていた。』乱世に生まれた子に穏
やかな落ち着いた乳児期などなく、あるのは人よりも早く受け入れなければ
ならない不穏と不安だけであった。
沙田浦を離れて30分も経たないうちに、後方で沙田浦の銃声がまた大き
く響いた。二人の荷担ぎ人夫は荷物を投げ捨て、地べたに跪き、頭をたたき
つけて言った。「どうか、どうかお助けを!旦那様。私たちは家に戻りた
い!」彼らは言い終わるとすぐに這い上がって引き返して行った。あっとい
う間に走り去り影も形もなかった。あたり一面、村落もなければ人家もない
そんな所で、父は自分一人だけですべての荷物を担ぐという重責を負うこと
になった。母と袁さんの奥さんは歩きすぎて、すでに両足にまめができ、仕
方なく靴を脱いで裸足で歩いていた。こうして3,4㎞歩き続けたのち、や
っと老いた農夫に出会い、道を教えてもらった。一行はある小さな村で数人
の駕籠かきと荷担ぎ人夫をやっと探し出した。夜の9時になってようやく南
岳市に到着した。この日は皆にとって忘れ難い苦難の一日であった。また、
父が生涯最も疲れた一日だった。南岳市で3日待って、やっと車に乗り衡陽
に向かうことができた。その後粤漢鉄路に乗り、広東の樂昌に直接行った。
樂昌に到着した後、すでに台湾に撤退している54軍291師団に手紙を
送った。ほどなくして台中の沙鹿鎮にいる袁さんのご主人袁賢祺営長の返事
を受け取った。それには4人の台湾進入証明書が同封してあった。ここに至
ってやっと安心できた。目標を得てからはもう二度と今後どうすべきか等と
苦悩することはなかった。
一行は樂昌から湘南汝城の故郷に戻り、両親や親せきを訪ねた。避難の最
中の短く貴重な機会ではあるが、至る所に危険をはらんだ行動であった。湘
南の多くの地域はすでに共産党化が浸透し、故郷は土共(民兵)によって
司令部が作られていた。その半年の間に食糧や使えるものすべてすっかり持
っていかれて、何も残っていなかった。父のこの時の帰郷は共産党に見張ら
れていただけではなかった。彼の教え子、同僚、多くの人達が、大っぴらに
またはひそかに脅してきたり、利益で釣ろうとしたりして、彼にある組織が
用意した仕事をさせようとした。

図 車は道を行く

日訳 後藤香代子

2011年6月17日 星期五

圖六

圖五

圖四

圖三

圖二

日本宮崎市的帕青哥店 (組圖)


記得十幾年前剛從喧囂的台北市搬到宮崎市的頭幾天,覺得宮崎市 是一個沒什麼聲音,也沒什麼色彩的地方。(宮崎的自然景色可是絕佳的)。 學校接待人員帶我們上街指點一些日常生活需去的地方 如 市場,郵局,銀行...等,車子在街上繞行時,我注意到街上凡是較大較亮麗多彩的建築物卻都是帕青哥店,更特別的是它的招牌幾乎都是用英文標示。不知是為什麼。貼幾張照片給大家看看。

2011年6月14日 星期二

佈告

"回看來時路 前眺未知處" (一) 已有日文翻譯。請參閱。謝謝。

圖二


我這學期漢語初階 班的十一位學生,不但各個有特色,學習態度的專注與努力,真令人讚賞!!!

未來的國際橋 (圖)


(日本 宮崎國際大學 漢語課)

我這學期漢語中階班一位非常優秀的學生 --- 河野由貴,已經去北京語言大學修過一期短期密集課,今年秋天將再去研習。未來的成功是可預見 的。

2011年6月10日 星期五

圖四 "清水英美壽"


孜孜不倦 練了十四年 三弦琴 的美籍人類學學者 L. Scott Davis 已經出師 ,不但已獲得了資格証 ,並獲賜清水門派的門生名號 "清水英美壽"

http://www.youtube.com/watch?v=G9ItwhPY5DQ&feature=related

2011年6月6日 星期一

預告

自即日起 本版文章將陸續上傳日文翻譯。 五月份已有兩篇有日文版,請參閱。謝謝 。

2011年6月4日 星期六

"回看來時路 前眺未知處" (二)


父親因母親臨盆在即無法隨國民黨軍隊撤離, 我出生後至八月初,父母被迫住在解放後的上海市。 這期間父親曾支援其鄉親袁賢祺兄的妻與子,也發生了有驚無險的他三次被捕事件。
在混亂中父親大概盤算著如何歸隊。但情勢讓他們只能先作回老家的第一步打算 。八月初父親遂帶著母親與我,袁太太與子(袁國寧教授),同鄉等數人,買到了招商局的船票,乘 "江安輪"溯江而上,離開了上海。

父母所乘 之"江安輪 " 白日因避國軍之飛機, 須靠岸讓乘客們上岸躲避,整整航了八夜九天才抵漢口。漢口到長沙的鐵軌破損嚴重,一夥人便打算坐民船先到長沙再說。他們好不容易找到了一艘小民船。這單桅全長約三丈的小民船竟然被塞了十個大人三個小孩。這小船往南日復一日的航行著。
在洞庭湖中離開岳陽航行約二、三小時時,這小船遇到了一場驚魂的大風暴;船像一片竹葉在水中打圈圈,帆被風灌得滿滿地拉不下來,舵也被洶猛浪潮沖斷了。大家歇斯底里地狂叫。船無法控制只有聽其飄盪。船老闆以跳板作舵穩定方向。過了不久看見一艘大船,船老闆大聲呼救,但狂風猛浪如萬雷轟擊哪聽得到呼聲,況且那大船也自顧不暇。在沒有辦法當中大家只有閉上眼睛,聽天由命 ... 不知過了多久居然發現奇蹟式的擱淺在汨羅江的一條小支流的沙灘上。聽當地人說在洞庭湖遇到風暴,斷了舵,風帆無法放下的船隻,能夠不葬身湖底的還相當少見。我們這夥逃難的人幸運的躲過了一劫。

在長沙市解放後的一週餘,這夥人進入了長沙。其時湘潭以南,國軍仍與共軍對峙,他們不敢貿然南行,便在長沙暫住。暫住但也不能久待,最後大夥決定經淥口,衡山去衡陽。如此就可搭粵漢線火車至樂昌再想法轉汝城即能回家了。由長沙坐小民船經湘潭到淥口走了兩天一晚,淥口坐火車到 朱亭停了一晚,次日趕到沙田浦。在沙田浦坐渡船渡河時,東岸的共軍與西岸的國軍交起了火,子彈『嘶!嘶!』不斷掠過頭頂,大家都嚇得面如土色。渡船上會游泳的當地人都紛紛往河裡跳。
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圖 :水推浪 浪頂舟 (象形字形藝圖)
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母が出産を間近にひかえていたので、父は国民党軍の撤退についていく
ことができず、私の誕生から8月初めまでの間、
両親はやむを得ず、解放後の上海に住んだ。
この間、父は同郷の袁賢祺さんの妻子を助け、また、大事には至ら
なかったが3回逮捕されるという事件もあった。
混乱の中、父はどのようにして原隊(国民党軍)に帰るかを
思案していたのであろう。しかし、情勢はままならず、
彼らはまず故郷へ帰る準備をした。8月初め、

父はすぐに母と私・袁さんの奥さんと子供(袁国寧教授)・
同郷のひと数人を連れて、招商局の船の切符を買い、
“江安輪”に乗って河を遡り上海を離れた。
両親が乗った“江安輪”は昼間は国民党軍の飛行機に
気づかれないように、岸に着け、乗客は上陸して隠れた。
まるまる8泊9日航行してやっと漢口に着いた。
漢口から長沙への鉄道レールは破損がひどかったので、
一行は木造客船に乗って、まず長沙に行き、
その後のことはそこで考えることにした。
彼らはやっとのことで一艘の小船を探し出した。
マストが1本で全長10mのその舟は、
10人の大人と3人の子供で埋めつくされた。
小船は南に向かって一日一日航行し続けた。
洞庭湖の岳陽を離れて、2、3時間たった時、
船は驚くほどの暴風に見舞われた。
舟は竹の葉のように水上でくるくる回り、
帆は風に吹き付けられて引き降ろすこともできず、
舵も荒れ狂う波で折れてしまった。
皆ヒステリックに叫び狂った。舟は制御不能になり、
ただ漂い流されるだけだった。
船長は渡り板を舵にして方向を安定させる。
ほどなく一隻の大きい船がみえた。船長は大声で助けを呼ぶ。
しかし、荒れ狂う風と波は、まるで万雷が鳴り響くかのようで、
船長の叫び声が聞こえるわけもない。
まして、その大きい船も自分のことで手一杯で、
ほかの船のことなどかまっていられない。
なすすべもなく、皆はただ目をつぶって運を天に任せた。
どれくらい時間がたったのだろうか。
思いがけず、奇跡が起こったかのよう
に、汨羅江の支流の砂州の上に乗り上げた。
地元の人の話によれば、洞庭湖で暴風に会い、
舵が折れ、帆を降ろすこともできなかった船が、
湖底に葬られずにすむのはかなり稀だそうだ。
私たちの逃避行は幸運にも一つ災難をかわした。

一行は解放後約一週間が過ぎた長沙に入った。
その時、湘潭の南は国民党軍と共産党軍が依然対峙
したままだった。父達は迂闊に南下せず、
長沙に暫く留まった。一時的な滞在は長くなく、
最終的に淥口と衡山を経て衡陽に行くことにした。
このように、粤漢線の列車で楽昌まで行き、そこでまた方法を考え
て汝城に行く、すなわち家に帰ることができるということだ。
長沙から小船で湘潭を経て淥口まで1泊2日。
淥口で列車に乗り朱亭に行き、一晩停車し、次の日、
沙田浦に急いだ。沙田浦にて渡し舟で河を渡るとき、
東岸の共産党軍と西岸の国民党軍が交戦を始めた。
銃弾がピューピューと絶え間なく頭をかすめた。
皆、驚きと恐怖で顔は土気色だった。
泳げる地元の人は舟から次々と河に飛び込んでいった。
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図 水は波を押し上げ 波は舟を頂く(象形文字による絵)

日訳 後藤香代子

2011年6月3日 星期五

當初的高材生 當今的真學者(圖)


兩位走在撒摩維爾道上(Somerville Ave)當初年輕的哈佛大學博士生 ; 一位已是當今考古學界的翹楚 . 一位是對中國古籍有專研及新觀點的人類學學者.