2012年2月29日 星期三

錐形包心菜

好像在亞洲,至少在台灣 日本,沒看過這種形狀的包心菜
吃起來和台灣稱的高麗菜,口感大同小異。




回看來時路 前眺未知處 (十)


「損傷的程度如何?」李團長問。
「本船共有兩隻鍋爐,爆炸了一隻,也就是廢了一半;好在僅僅是鍋爐破了,未影響整個的輪機!」
「船還能不能夠航行呢?」
「在平穩無大風浪的情況下,還可以慢慢走;如果風浪太大,就無法控制,有翻船的危險!」
「現在怎麼辦呢?」
「我當了幾十年的船長,也是第一次碰到這樣的事;我正要請示你這位指揮官呢?」
「請教船長,我們現在的位置在甚麼地位?」
「本船現在的位置,正在香港與汕頭之間。靠香港較近;如以海口與高雄言,則距離差不多相等。」
「換句話說:如果要就近修船的話,以回頭開往香港較便利!」
「對!對!對」
「開回香港修好之後,能否獲得煤水的補給呢?」
「那就沒有把握!」
「那往高雄開呢?」
「那就看上帝是否護佑了!」
李團長拍一拍我的肩膀說道:
「老兄的高見如何?」
「既然回頭開香港與前進到高雄,都要靠老天幫忙;到高雄是我們的目標,有生路;回香港,則前途茫茫,是死路;同樣要冒險,當然只有往高雄前進啦!」
我說過之後,船長點點頭,李團長便道:
「對!對!只有前往高雄,才是生路。」他回頭朝著船長道:
「船長!我的命令:繼續朝高雄進發!」
「遵命!」船長笑笑,緊緊地握著李團長的手。

船走得比較慢,幸好天朗氣輕,已過了十一月,沒有颱風的侵襲了。我們從海南島開船的第四天早晨,從東方海面上,看見一點點尖峯了;當時的個人歡欣之情,我想與哥倫布當日發覺新大陸沒有兩樣;有人一呼叫,其他的人也跟著瘋狂般的歡呼跳躍.....。

山尖,可能就是玉山的主峯,慢慢地明顯,漸漸地擴大,眨眼之間,旁邊又出來許多峯巒;像畫山水時的筆鋒,往左右橫皴開去,則如一座屏障似的山脈;如在九江看廬山;在湘潭看衡山,雄偉渾厚的擺在眼前;林木青蔥繁茂,似碧綠的翡翠堆砌一樣;使我們個個看得眼花繚亂,心曠神怡......。
「天平輪」原是台灣的船隻,一到了高雄港,與港務方面一聯絡,領港的船隻,很快就來領港;靠了碼頭,經過海關與憲警的檢查,出了關之後,我便興奮地叫道:
「啊!我們終於脫離了苦海;跨上了這隻不沉的軍艦了!......」

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父親的前半生回憶錄全文完成於一九九〇年。 只寫到一九四九年十二月到台灣,而這一年的逃難史也是我出生至近七個月的歷史。
因健康的原因他到一九九四年過世都無法再寫他後半生的回憶錄,是他的也是我們的最大遺憾!
下一篇開始將紀錄我自己從人生最早的記憶一路寫下去,能寫到何時就寫到何時。感謝大家的繼續支持,謝謝!!!

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「損傷の程度はどうなんだ?」李団長は船長に聞いた。
「本船は2つのボイラーがあり、その1つが爆発し半分役に立たなくなりました。幸いボイラーが壊れただけでエンジン全体には影響がありません。
「船はまだ航行できるのか?」
「穏やかで大きな風や波もなければ、まあゆっくり進むこともできます。もし、風波が激しいならば、コントロール不能になり転覆の危険があります!」
「じゃ、どうするんだ?」
「私は数十年船長をやっていますが、こんなことに出くわしたのは初めてです。指揮官であるあなたに指図を仰ごうと思っていたところです。」
「教えてくれ、船長、我々は今どこにいるんだ。」
「本船の現在置は、ちょうど香港と汕頭の間です。少し香港寄りです。もし、海口と高雄からの距離でいえばほとんど同じです。」
「言い換えれば、もし、近くで船の修理をするならば、香港に戻るのが便利ということか!」
「はい、はい、そうです。」
「香港に戻って修理が終わった後、石炭と水の補給はしてもらえるのか?」
「それは自信ないです。」
「もし、このまま高雄に向かったならば?」
「天が助けてくれるかどうかにかかっています!」
李団長は私の肩をポンとたたいて言った。
「あなたのご意見はどうですか?」
「香港に戻るか、高雄に行くかである以上、どちらも天の助けを借りなければならない!高雄に行くことが私たちの目標であり、それは活路がある。香港に戻ると将来の見通しがつかない。それは破滅の道だ。同じように危険を冒すのなら、当然、高雄に向かっていくだけです。」
私が言い終わると、船長はちょっとうなずき、李団長は言った。
「そうだ!そうだ!高雄に行く。それだけが生き残れる道だ。」
彼は振り返って船長に言った。
「船長!引き続き高雄に向かって前進せよ!」
「かしこまりました。」船長は笑って李団長の手を硬く握りしめた。

船の航行はわりとゆっくりだった。幸い空は晴れ、空気がすがすがしい。すでに11月を過ぎて、台風の襲来はなかった。海南島を出て4日目の早朝、私たちは東の海上に峰の尖端をわずかに見つけた。その時の人々の歓喜の気持ちは、コロンブスが新大陸を発見したのと違いはないと思う。一人が叫んだ。続いてほかの人達も気が狂ったように歓呼の声を上げ、躍り上った...

山の先端はおそらく玉山の主峰に違いない。ゆっくりと、はっきりと、次第に大きくなった。瞬く間に、その横にたくさんの山々が現れた。山水画の筆先が左右横にひだをかきいれて、一山一山描いていくようだった。まるで一枚の屏風のような山脈は、九江で廬山を見る如く、また、湘潭で衡山を見る如くであった。雄大で力強い山々が眼前に広がる。木々は青々と茂り、エメラルドグリーンの翡翠が積み重なったようであり、私たちは皆、目がくらみ、心からゆったりとして良い気持ちになった。

『天平輪』はもともと台湾の船なので、高雄港に入ってからは、港湾事務所に連絡したら、水先案内の船がやってきて、すぐに入港できた。港に着岸して、税関と軍事警察の検査を終え、税関を出た後、私は興奮して叫んだ。「ああ、ついに苦海を抜け出すことができた!沈まぬ軍艦(台湾本土)に乗り移ったのだ!」

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父の前半生の回顧録は1990年に完成した。194912月に台湾に到着したところまで書いている。この一年の逃避行は私の出生から7ヶ月までの歴史である。父は病気で1994年に亡くなったので、後半生の回顧録を書くことはできなくなった。これは父のまた私たちの最大の遺恨である。

次回からは私自身の最も古い記憶から書き記していく。書けるところまで書き続ける。読者の皆様の御支持に感謝します。引き続き、よろしくお願いします。


日訳 後藤香代子

[回看...」(七)の日本語訳を載せました。ご参照ください。

本編は1 月の欄にあります

2012年2月21日 星期二

算算日子,搬離日本即將兩個月了。很想把懷念的情愫付諸紙筆,但一下筆才發覺頗為困難。因為絲絲絮絮縷縷,層層疊疊穿插,那麼多的人與事,絕大多數竟都是美好的。怎麼會只有好的,沒有不好的呢?誰會相信呢?那我就客觀平衡,仔仔細細,絞盡腦汁思考看看,我在日本曾經受過甚麼傷害,傷心,不滿或遺憾...的事?想來想去,竟想不出一件。腦中游移浮沈的全是美好的,這是真的。信不信也只好由人了!

初到日本的頭幾年,體驗日本社會的方方面面,心中時常迸出自己對自己講的一句話是:「禮運大同篇,人家基本上都達成了...」;我走在路上,碰到不認識的小孩,十個有九個半會跟我打招呼問好;公共場所的服務人員總是彬彬有禮;沒有房子釘防盜鐵門鐵窗的,幾近路不拾遺,夜可以不閉戶;十四年沒碰過停水(颱風天停過一兩次電 但都非常短暫);到處整潔乾淨有秩序;社會福利照顧到各個層面...等等等。在這樣的一個社會生活,我講心裡的話,每天的生活都是一種享受。

後來的幾年,那就是一直享受著朋友,學生間給我的 “情”。有幾位成年學生都變成了我的莫逆之交(有兩位已在這版上介紹過,還有幾位未來有機會會陸續介紹)。而在大學教過的學生與在家教的小孩學生們,她們與我之間也有一種多過師生之間的情愫。我愛每個孩子,每個孩子都像我的親兒親女親孫親孫女一般,離開他們是我離開日本宮崎最難割捨的部分之一。

在日本14年忙碌的教書生活,幾乎每星期都接觸幾十或上百各行各業,各種年齡層的日本人士,和他們的交往令我懷念的部分,大約可以形容為 - 交淺而情深。沒有觥籌交錯,沒有頻繁接觸,但有的卻是情深意更長的君子之交。

而物質方面,讓我懷念的也很多,先舉三樣談談,其他的以後有機會再談。

搬到日本不久就開始迷上日本的綠茶,準確的說是九州的綠茶,更準確的說是宮崎縣都城的綠茶。開始的時候我是換著喝不同產區不同品牌的茶葉,可是慢慢地就只盯著都城出產的了。那地方的綠茶,不管便宜的或貴的都有一種特別的清香。我迷的就是那種綠茶的香味。離開了那個地方要再品到那種茶香,恐怕是不容易的了!

我還懷念的是日本傳統的甜點。當你進入一家傳統糕餅店時,映入眼簾的總是琳琅滿目,但就其材料大致不出糯米麵與紅豆沙兩種。並非這兩種食材我有多喜愛,而是日本甜點完全無油脂;對消化不好不能吃油脂的人而言,這是珍貴而難得的。早期多數甜點仍嫌太甜,近年人人講究養生,降低甜度的甜點簡直趨於完美!寫到這裡,不得不嚥一口口水!
離開了日本,對於甜點又要開始忌口了。

在日本,生活上方便與精緻的特點不勝枚舉,但最特別的是馬桶。功能多的像:顧及禮貌的聲響功能,不同強弱方向溫度的水柱的清洗功能,熱風涼風烘乾功能...等的,而絕大多數公共場所與住家都早已裝置了這類馬桶。我懷念的都不是那些繁多的功能,而只是最基本的可調溫的馬桶座圈。在寒冷的冬天,坐在溫暖的馬桶圈上,每次的如厠也變成一種享受。怎不令人懷念?


2012年2月14日 星期二

啤酒節

我們公寓對面的山坡,原來是有大來頭的。它是每年在德國有“皇后啤酒節” 之稱的“Bergkircheih"beer festival 舉辦的地點。這個在巴伐利亞地區第三大的節慶,每年有百萬人來此參加喝啤酒。2010年它才剛剛慶祝了它的第255年的年慶,可見已是一個歷史悠久的傳統節慶。今年(2012)的舉辦時間是5月24號到6月4號。屆時如果有機會我不但會站在我住的公寓陽台觀賞喝啤酒的廣大人群,也會抓機會拍些照片,給大家觀賞。
等不及的讀者可以Google一下,看看許多過去的啤酒節的盛況。

公寓對面啤酒節舉辦地點。沒下雪時。

與上圖同樣地點的雪景

窖藏啤酒不知有多少

喝啤酒的長桌長凳,據說此地區有一萬一千個位子



公寓(大學招待所)

我從公寓對面幾步之遙的一個山坡上照的我們住的公寓房子。而這個山坡是有故事的。很快會介紹。


右邊二樓靠中間黃牆的兩個窗戶就是我們住的單位

幾張雪景

水不結冰的一條小河

公園中噴水池的雪景

像哈佛大學校園的公園景象

2012年2月10日 星期五

三個觀察

搬到德國已三星期多,這三星期中幾乎兩星期都是異常的冷。每天早上打開電腦,第一件事就是查幾個有關地方的天氣及氣溫;而此地的溫度幾乎也已連續了兩星期都是攝氏零下7到25度之間。外面的積雪,時厚時薄,但就是不消失。而一想到要在那滑溜的雪及冰上走路,就打消了許多次外出的念頭,因此就這樣一天又一天的待在房裡,寫文章,經電腦聽音樂,看節目等。仔細想想,經過了近兩個月的搬家變動,飛了近四分之三個地球的距離...這兩星期的類“閉關“未嘗不是老天給的恢復精神體力的好時機。當感謝老天!

三個多星期對一個新地方的觀察當然是非常的短暫不足,但就這麼短的期間我也觀察到了三個情況,願在此說說。

第一,到現在為止,還沒看到過在美洲,亞洲民主國家內隨處可見的連鎖便利店。我不知道是全德國都如此還是只是這地區所特有?或德國有他們自己名號的或方式的便利店?尚需時日來瞭解。

第二,沒看到紗窗。住宅區,街上房子的窗戶都沒有紗窗。讓我心裡要問,德國沒有蚊蟲嗎?可能答案要等到夏天來臨才會揭曉。

第三,大多數商品都是德國製。剛來時有些急用但這邊房子沒有的東西,便出外購買,因為想到在德國大概不會久待,便挑便宜的買,如毛巾,襪子,炒菜用的鏟子,膠手套...等,回家一看標籤全是 Made in Germany(德國製)。而幾天前想烤東西,出外買烤盤,油刷,刮麵漿的刮子等,也都是德國製。最後要買幾個不鏽鋼小湯匙,結果翻過背面一看,還是德國製。幾乎不論大東西,小東西,貴的,便宜的...全是德國製。是外國貨沒有競爭力,還是什麼原因?我心裡不禁百味雜陳。全球許多國家都在實施分工互補的政策,但看樣子德國對於"製造東西"還是牢牢的抓在自己手中。難怪德國的失業率低,經濟是歐洲第一。

德國人的聰明實際,怕是多數其他族類望塵莫及的吧!

2012年2月7日 星期二

玄夢

母親與大妹較年輕時照片

談過了父母曾經經歷過的靈異事件,我自己也有過兩個玄奇的,一悲一喜的夢。這盤距在腦海深處的特殊夢境,時不時就會浮出腦際。一份喜感總是伴著不解,而那份傷感,不是越來越淡,卻反而與日俱增。

1993年夏初,在美國,外子取得博士學位後,獲得了一個澳大利亞國立大學的博士後研究工作,正準備搬去澳洲時,驚聞母親罹骨癌。母親因大部份家人仍在台灣,遂決定回台治療。
一件滿特殊的情況在此先附帶一提:記得那個下午,在美國大弟家,大弟剛接到醫院電話,得知母親確定罹癌,當下說晴天霹靂,五雷轟頂都遠無法形容那份震驚與恐懼,這樣的噩耗怎會降臨在一向健康樂觀的母親身上?記得在兩小時之內,大弟的痛風發作,難於行走,而我整排牙齦都莫明發痛難忍。內心深沈的焦慮竟能讓肉體有這樣快速劇烈的反應,是我一輩子無法忘懷的。經過自己這次的親身經歷,歷史上春秋時代伍子胥過昭關一夜黑髮變白頭的故事,可能有點可信的了。

搬至澳大利亞後不久,有一晚,夢見大弟帶著母親來看我,我一開門見到母親那張完全灰白的臉(連嘴唇都是灰白的),心裡一陣驚駭,大弟站在母親身旁,好像說了一聲:我帶媽來看妳...,之後的情景已模糊。那個夢之後不到三個月,母親便與世長辭。
在之後的近十八年每憶及這個夢我都會自我解析;認為離美赴澳時是帶著深度對母親健康的憂慮與惶恐。因此做那種夢似乎合理。但隨著年齡漸長我卻越來越自責。我人在澳洲,母親在台灣,大弟在美國。這樣的夢很可能是母親在冥冥中知道自己來日無多,思念遠在他方的兒女,因此在夢中我看見了她的那樣的一張臉。如果那段時間我能排除萬難回台陪她一陣子或許就不會有那個夢。那段時間在台有父親,弟妹在照顧母親,但我這個自小體弱多病是最讓母親耗費心血撫養長大的長女,理應照顧母親最多卻讓大妹扛起了這個責任。
母親在世最後的兩星期時日,雖然所有五個兒女都在醫院陪伴守候,但她意識清楚的時間越來越短,許多想和她說的話已無法傳達。那份傷痛悔恨是恆久的刻骨銘心。

不管夢境或真實,為什麼是她來看我而非我去看她?這份遺憾將永無彌補之日!

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一個喜的夢是外子要寫博士論文,在台北南港的一個小廟裡,做田野調查期間,由於兩人都奔不惑之年,便考慮要生個孩子。但我大概因年齡關係,流產了一次,之後,就一直很茫然,不知是否還要考慮孩子的問題。

外子田野調查的對象是一位女性乩童。有一整年的時間外子每天晚上去那間小廟觀察乩童與 “病人” 的互動,因此與許多與那廟有關人士與信徒等都變得熟稔。而我因在上班,並不常去那個廟,與那邊人士也不熟。可有一次我做了個夢;那位女乩童王女士站在我面前,非常近的距離,非常清楚的指著我說:妳明年一月會生一個孩子(以台語說的)。那個夢後不久我又懷孕了,一直到女兒出世都很平安順利。而女兒生在隔年的陽曆二月,一算,不就是陰曆一月嗎?(民間仍還多用陰曆)。
這個夢至今想來仍覺玄奇。

從懷女兒到生到養大成人,一直都平安順利。不管是不是得到神明的保佑,還是那位乩童女士的 “助力”, 那份感激,此生都會永存於心!!!

回看來時路 前眺未知處(九)

先父在他年輕逃難的歲月中,竟然有緣與趙小蘭女士(Elaine L.Chao)(美國勞工部第24任部長 2001~2009)的祖叔公趙以忠先生有過接觸。趙女士的父親是趙錫成先生,祖父是趙以仁先生,祖父之弟便是天平輪船長趙以忠先生。

父親在他的回憶錄中這樣記載著:「...在開航前兩天,李團長請我進船長室,老船長也在,他還客氣地泡了一杯咖啡給我,這是二十幾天來第一次喝如此美味的飲料;所以對船長非常感謝!船長的年齡約在六十上下,滿頭捲曲的白髮,加上滿臉的絡腮鬍子,穿一件退了色的工裝牛仔褲,猛一看,非常像『老人與海』的作者漢明威。

在等船從湛江市回來的時間,父母和鄉親是住在海口市。父親回憶錄繼續這樣記載著:「海南島的大街小巷,因為時局的突變,到處擾擾攘攘,風聲鶴唳,使人心惶惶不安!物價一日數漲。撤退到此地的軍隊很多;尚有組織的部隊,當然也還維持軍紀,有些脫離了組織的個別官兵,為了生活,就難免有時出出下策了,所以到處有糾紛。


在海口市待到約第十天,李團長派來的人,通知我們:「『天平輪』已自湛江市回海口了。要我們在兩天之內上船,以便開赴台灣」,這真是天大的好消息。我們分頭去買了些東西,全部是吃的,其中有不少可以存放的乾糧;雖說三四天就可到台灣,我們有過一次餓肚子的經驗,就不會老老實實只帶三四天的食物了。


『天平輪』加足煤與水,正待啟錠東航台灣之際,又奉到了命令;暫停駛台,另有任務,真是急煞人也!過了五六天,命令下來了,要天平輪去榆林港運輸一批軍備與人員來海口。」船回到海口之後,又面臨上一次一般的麻煩:燃煤不夠,要請求港口司令部加煤,往返二三天加足煤後,水又不夠了,再申請加水,等兩三天水加來之後,煤又不足了;這樣的循環好幾次,等到真正把煤,水都加足,船開始啟航東渡時,已是民國三十八年十二月初了。


啟航第二天的午夜,我們在睡夢中,忽然被一聲雷轟驚醒,船像被拋到空中一般地震動;我爬起來,往船長室一看,老船長正在聽電話,我和李團長,賈副團長都站在旁邊,船長掛上電話後便說:「有一隻鍋爐爆炸了,船實在太老了!

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亡父は若いときの逃避行の最中、なんと、縁あって趙小蘭女士(Elaine L.Chao アメリカ連邦政府第24代労働長官2001~2009の大叔父趙以忠さんと出会っていた。趙女士の父親は趙錫成さん、祖父は趙以仁さん、祖父の弟はほかでもない『天平輪』船長の趙以忠さんだ。

父は彼の回想録のなかで、このように書いている。「...出航の2日前、李団長は私を船長室に招いた。中には老船長もいて、彼は丁重にコーヒーを入れてくれた。20数日ぶりにこんなにおいしい飲み物をいただき、船長にはとても感謝している!船長の年齢は60歳前後で、頭はカールした白髪で覆われ、顔は鬢まで続くもじゃもじゃのひげで、色あせたジーパンをはいていた。ぱっと見た感じは、「老人と海」の作者ヘミングウェイに似ている。」

船が湛江市から戻ってくるまでの間、父母と同郷の人は海口市に滞在していた。父の回想録は続けてこのように記されている。「時局の突然の変化で、海南島の大通りも路地も、至る所で騒動が起きていて、人々はちょっとした事にも怯え、びくびくして落ち着かない様子である。物価は日に数回上昇した。この地まで撤退してきた軍隊は多かった。依然組織だった部隊もあり、当然そこは規律を維持していた。しかし、組織を離脱した一部の兵士たちは、生活のために、時には悪事を働くこともあり、どこもかしこも、もめごとばかりだった。

海口市で待つこと十日、李団長が差し向けた人は私たちに通知した。「『天平輪』はすでに湛江市から海口に戻ってきた。台湾へ向けて出港するため、2日間の内に乗船しなさい。」これは素晴らしいニュースだ。私たちは手分けして買い物に行った。すべて食べ物である。その多くは保存できる携帯用食品であった。3,4日で台湾に到着するとはいえ、私たちは一度空腹を経験したので、正直に3,4分だけの食料を持っていくということはなかった。

『天平輪』は石炭と水を満杯にし、正に碇を上げて台湾への出港を待っているその時、また、命令を受けた。台湾行は一時停止だ。別の任務ができた。まったく、やきもきさせられる!5,6日たって命令が下った。『天平輪』は楡林港に行って、軍隊の装備と人員を海口まで運ぶというものだ。船は海口まで戻ったのち、また前と同じ問題に直面した。石炭不足である。港の司令部に補給を頼んで、2,3日往復して石炭を補給してもらった。その後、水がまた不足した。水の補給を頼み、2,3日待って水が来た。またもや、石炭が足りなくなった。このように何度も繰り返して、石炭と水が本当に一杯になってから、船は東へと出航した。時はすでに民国3812月初めであった。

出航して2日目の真夜中、眠っている時、突然の雷鳴で驚いて目を覚ました。船は空中に投げ出されたように大きく揺れた。私は這い上がって船長室を見た。老船長はちょうど電話をかけていた。私と李団長、賈副団長はそばに立っていた。船長は電話を切って言った。「ボイラーが一つ爆発した。船は全くポンコツだ!」

日訳 後藤香代子





2012年2月2日 星期四

孔子學院 新春招待會

昨與外子及幾位學者去紐倫堡參加 孔子學院舉辦的新春招待會。
因為紐倫堡和大陸深圳是姐妹市,因此有表演團體從深圳來此做小型演出。
有古箏,太極舞,國樂等的。可惜的是表演空間有點小而中後段的觀眾都看不到。
照相角度不佳,表演者無法照清楚,請諒。

會場一瞥

右邊兩盤是香腸,左邊兩盤是燒大紅椒  滿好吃。

左三位是所裡學者,右為一位研究生,未來的漢學家。



看看幾層

(德國我住的這邊的) 一張面紙有四層,廁紙也是四層!
因為是真正的厚實柔軟好用,反而可以杜絕浪費,節省資源 !!!



「续美牛」の日本語訳を載せました。



「续美牛」の日本語訳を載せました。ご参照ください。

本編は 2011/ 5 月の欄にあります

「益活菌」の日本語訳を載せました。



「益活菌」の日本語訳を載せました。ご参照ください。

本編は 2012/ 1 月の欄にあります