2012年5月1日 星期二

回看來時路 前眺未知處(十三)

我們在花蓮那棟老舊的日式平房,住了不算短的時間;從我近兩歲一直到小學一年級才搬離。在那幾年發生的一些事情,留在記憶中是五味雜陳的;快樂有趣佔多數,但也有不愉悅甚至有點不堪的。能記住的不超過十件。在這篇裡的幾件雖有點平淡瑣碎,無啥驚人之處,但也許在自己更老時回頭讀它,說不定仍能帶來一絲絲回到過去的欣喜。

在逃難期出生的我在嬰幼兒期是體弱多病的,因此一到台灣父母就忙著給我補身體。他們連著買一種從英國進口的乳白魚肝油,逼著我每天都要吃一匙。那種黏黏稠稠有強烈味道的東西,簡直太難下嚥了!每天我都為了這刻的到來而壓力沈重,天天到吃的時候都和母親有爭執;但是回回不管我如何抗拒,母親從不投降,最後還是得吃。

如今想來,當時那麼多人深信那種東西對身體有益,也花與收入不成比例的費用去購買它。是不是真的那麼有益可能並不太確定?服用期的頻率,長短與數量如果不對都可能對身體造成副作用如頭髮稀疏等;而能得到醫生或專家指導的又有多少?

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能顯出母親個性特點的在我最早的記憶當中,還有一件;也是兩歲多時,有一天,我在家門口附近與幾個年齡較長的孩子們玩耍,可能看見有人摘花圃裡的植物放在嘴裡吮汁,我年紀太小根本不懂甚麼是甚麼,就跟著模仿,不料,一片葉子放進嘴裡一嚼,馬上難受的哇哇大哭;大概哭聲太突然,幾個大孩子嚇得愣在那,母親聞聲衝出門來,看我嘴裡有東西,馬上用二指挖出,然後問那些較大的孩子,知不知道我摘的是甚麼葉子?有小朋友指出一種,母親二話不說,即刻摘了一片,放進自己嘴裡,嚐嚐,然後吐掉,之後迅速帶我回家把我清理一番。
她這個不加思索即刻親自嚐試的動作,留給我深刻印象至今仍存。如果那個當下我是母親,我敢不敢即刻自己也嘗一下,真的很難說!

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大概在我四歲多時,有一天母親接到一個電話,掛上電話後,對我們說:...等一下有人要來我們家,給你們打預防針,我去把房子收拾一下...,我聽後,並不瞭解什麼事情要發生,但就有一種莫名的害怕感覺;越接近那些人要來的時間就越覺得恐怖。等兩位穿著軍服,背著藥箱的人一進門,我就開始放聲大哭,這一哭,母親,那位軍醫及助理都忙著過來哄我,可越哄我就哭得越厲害。還記得,那時的心思是想以大哭來阻止他們打算對我做的事。那位軍醫其實非常和善又很有耐心的一直試著安慰我,想方設法去除我的恐懼感;但是看著藥箱裡的針筒,聞著消毒水的味道,我實在很難安靜下來;不但越哭越兇,竟還開始駡醫生髒話。母親馬上責備我,也開始失去耐心,在折騰了好一陣子,最後還是得脫掉一支袖子讓醫生扎針。很快的,醫生說:好了。吖!就好了?我忽然內心覺得很自責;那麼快又沒什麼痛,剛才幹嘛那麼歇斯底里?大弟若無其事的老早打好了,只有我卻如此難搞,讓大家都費了那麼多的心力。

已近一甲子過去了,想來仍自責!

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還是在那棟老房子裡,我近五歲時,二弟已經出世。他是生在一個颱風夜,父親便給了一個和那個颱風同音的名字-“莅泰”。

兩男一女,三個小蘿蔔頭的房子已經夠熱鬧了, 而有一天有位父親的朋友送了一公一母的兔子給我們,說:小孩喜歡小動物,你們家小孩多,有兔子養着,會給孩子帶來許多樂趣...;結果,來了以後一發不可收拾。牠們繁殖之快,令人咋舌!一窩一窩的生,沒多久滿房子都是大大小小,各色花色的兔子每天在房子院子跑上跑下,到處亂竄;起碼三十多隻。母親餵牠們吃的空心菜也得越買越大量,而清牠們的排泄物也是一項不勝其煩的工作。雖然如此,好一陣子父母並未處理兔子,也不送人也不賣;不知是送不掉還是不知如何處理。

有一次,不知哪代的一隻母兔,竟然沒找隱蔽的地方生小兔;牠就在走廊一面靠牆的舊黑板後面生了一窩。我們姊弟在玩耍時,發現了那窩新生的兔子,便移開黑板,仔細的瞧瞧那些沒長毛的一隻隻粉紅色小東西。也許這個舉動被母兔看見了,或牠回來發現什麼被改變了,第二天一早,當我們好奇再打開黑板想看時,老天哪!!!一窩血肉模糊的小兔,全被母兔給咬死了!
這真給我們上了震撼的一課。母親告誡:...從此,我們知道了,新生的兔子不可以去看去打攪,否則觸怒了母兔,就是這個下場...。... 我們那天都黯然神傷!...

那麼多兔子陪伴了我們多久已不記得。只記得搬家前幾天,有好幾個人前後來家裡抓兔子;有的帶走一對,有的帶走好幾隻。最後總算是處理了所有的兔子。


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私たちは花蓮のあの古い日本式の平屋に、しばらくの間住んでいた。私が二歳ぐらい
から小学一年生まで居て、引越した。その数年間に起きたいくつかの出来事が記憶に
残っている。楽しいこと、つらいこと、苦しいことなどいろいろ経験した。大半は愉
快で面白いものであるが、不愉快で耐え難いものもあった。覚えているのは十件ほど
だ。ここに記載したものはありきたりの些細なことであり、取り立てて驚くべきもの
でもない。しかし、おそらく私自身この先さらに年を重ねたのちに読み返してみる
と、子供の頃に帰る喜びを少し得られるかもしれない。

逃避行の最中に生まれた私は、幼い頃身体が弱く病気がちな子供だった。そのため
に、両親は台湾に渡ってすぐ私に栄養を与えようとした。彼らはイギリスから輸入し
た乳白色の魚の肝油を続けざまに買ってきて、私に毎日無理やり一匙飲ませた。その
ねばねば、どろどろした強烈な味の肝油は、飲み込むのが本当に大変だった。私はそ
の時刻が来ると、気が重くなり、毎日毎日、飲むときはいつも母と言い争いになっ
た。しかし、毎回毎回、私がどんなに拒んでも、母は降参したことはなく、最後には
やはり飲まなければならなかった。

今思えば、当時、多くの人がその種のものが身体に有益だと深く信じていて、収入と
は比較にならないほどのお金で購入していた。本当にそんなに有益なのかどうかは、
その実はっきりしていないのではないか?服用の頻度、期間の長さ、数量がもし間違
っていたら、副作用が起きることもありうる。たとえば、頭髪が薄いなどの。また、
医者や専門家の指導を受けたものはどのくらいあっただろうか。

私の最も古い記憶の中で、母の性格の特長をよく表わしている出来事がもう一つあ
る。それも私が二歳くらいの時のことである。ある日、私は家の門の近くで数人の年
上の子と遊んでいた。おそらく、誰かが畑の植物を摘んで口に入れ、汁を吸ったのを
見たのだろう。年端も行かない私は何が何だか分からず、ただ真似をして、一枚の葉
っぱを口に入れた。ところが、咬んだとたん、わあわあと大泣きした。突然泣き出し
たので、数人の大きな子たちは驚いてぽかんとしていた。母は泣き声を聞きつけて飛
び出してきた。私の口の中に物があるのを見て、すぐに二本の指で掻き出した。その
後、大きい子たちに私がどの葉っぱを摘んだか知っているかと尋ねた。一人の子があ
る葉を指さした。母は一言も発することなく一葉つまんで自分の口に入れ、咬んでみ
てすぐに吐き出した。その後、すぐに家に連れ帰り、私の手や口をきれいに洗った。
母のこのとっさの判断で、即座に自分で食べてみた行動は、今でも印象深く心に残っ
ている。もし、その時私が母の立場だったら、同じような行動がとれるかどうか、全
く言い難い。

私が四歳ごろだったか、ある日母は一本の電話を受け、受話器を戻して私たちに言っ
た。「しばらくしたら、あなた達に予防接種をする人が来ます。私は部屋を片付けま
しょう。」私は聞いた後、何が起ころうとしているのか理解していなかったが、わけ
の分からない恐怖感があった。その人たちがやってくる時間が近づくにつれて、ます
ます恐怖を感じた。軍服を着て薬箱を背負った二人が入ってきたとたん、私は大声を
上げて泣き出した。母とその軍医と助手は慌てて私をあやしたが、あやせばあやすほ
ど私は激しく泣いた。今でも覚えているのだが、あの時の気持ちは大声で泣くこと
で、彼らが私にしようとしていることを阻止するつもりだった。あの軍医は実は優し
く、辛抱強く、ずっと私を慰め、いろいろ思案をめぐらして私の恐怖を取り除こうと
した。しかし、薬箱の中の注射針を見、消毒液の臭いを嗅いで、私はどうにも落ち着
くことができなかった。ますます激しく泣き、あろうことか、汚い言葉で医者を罵り
始めた。母はすぐに私をとがめ、母の我慢も切れ始めた。しばらくはこの状態を繰り
返し、最後には私の袖をまくり、医者に注射をさせた。とても速い。医者は言った。
「終わったよ」「えっ!もう終わったの?」私は突然自分を責める気持ちになった。
こんなに速く、何の痛みもなく、ついさっきまで、どうしてあんなにヒステリックだ
ったの?すぐ下の弟は何もなかったかのようにとっくに終わっていた。ただ私だけが
こんなに手こずってみんなに気苦労と骨折りをさせてしまった。

あれから、すでに60年も過ぎようというのに、思い出してもなお自責の念にかられ
る。

さらに、その古い家で、私が5歳ぐらいの時、二人目の弟が生まれた。彼は台風が来
た日に生まれたので、父はその台風と同じ発音の「莅泰」という名前を付けた。

男二人、女一人の幼子三人の家はとてもにぎやかだった。そして、ある日、父の友達
が雄雌一対のウサギを私たちにくれて、言った。「小さい子供は小動物が好きです。
お宅は小さい子が多いので、ウサギを飼うことは子供たちに多くの楽しみを与えてく
れます。」結果はというと、ウサギが来てからは状況が一変し制御不能となった。ウ
サギの繁殖の速さは舌を巻くほど!一代一代と生れて、短い間に部屋中、大小のウサ
ギでいっぱいになった。いろいろの毛色の混じったウサギが、毎日部屋の中や庭を上
がったり下りたり、至る所走り回る。少なくとも30匹はいた。母はウサギに食べさ
せる空心菜を、前よりも一層大量に買わなければならず、また、排泄物の片付けも面
倒でならない仕事だ。それでもしばらくの間、両親は決してウサギを処分しなかった
し、人にあげることもなく、売ることもなかった。多すぎて人にあげきれなかったの
か、それとも、どのように処理するのかわからなかったかは不明だが。

ある時何代目かわからないが、一匹の雌ウサギは隠す場所を探さないで、子ウサギを
産んでしまった。廊下の壁際の古い黒板の後ろで産んだ。私達兄弟は遊んでいる時
に、その生まれたばかりのウサギを見つけた。すぐに黒板を移動して、それらの毛も
生えていないピンク色の小ウサギ一匹一匹をじっと見た。おそらく、その様子を母ウ
サギが見ていたか、あるいは何か変化があったことに気付いたのか、次の日の早朝、
私たちが興味津津で黒板をどけて見ようとした時、ああ、神様!!めちゃめちゃに傷
つけられて血だらけになった子ウサギたち。全部母ウサギにかみ殺されていた。これ
は私たちに心を震撼させるほどの教訓を残した。母はたしなめるように言った。「生
まれたばかりのウサギを見たり邪魔をしたりしてはいけませんよ。そうしないと、母
ウサギを怒らせてしまい、こんな結末になってしまいます。わかりましたね。」あの
日、私たちは悲しくて心ふさがれ意気消沈してしまった。

あんなに多くのウサギがどのくらいの期間いっしょにいたかは覚えていない。ただ覚
えているのは、引越しの数日前、たくさんの人が前後して我が家に訪れ、ウサギを掴
み、ある人は一対、ある人は数匹持って行った。最後にはどうにかすべてのウサギが
片付けられた。


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