2012年1月6日 星期五

回看來時路 前眺未知處(七)

正在大家焦躁無助之際,一部小轎車忽然停住,車裡一人一揮手,後面跟著的一輛也停下了。前車裡後座的人探頭揮手叫喚父親上車。父親一看是軍辦事處李禮團長,這真有如天降救星。這團人就這樣在車裡坐著,在車外掛著,幸運的被載到黃埔碼頭。

父親在他的回憶錄中這樣記述著:「進入黃埔碼頭 停下時,碼頭到處人山人海,船仍在江中,沒有靠岸;因為該船是撥給五十四軍辦事處使用,由李禮團長指揮的。李禮團長還沒到之前,船是不敢靠岸的!李禮團長要原在辦事處登記之後的官兵,在碼頭上集合,準備待船靠岸後,先上船維持秩序,並分派檢查登船各單位之證件及清點人數。一切準備,均合乎行軍之規定與要領。當船慢慢將靠近岸上之際,石牌附近的槍聲大作,碼頭上亂作一團。此時,碼頭上的倉庫被人打開了,一些亡命之徒盡往倉庫裡奔;有的抱一大堆軍毯的,也有的拿很多白被單的,拿軍服的很少,白米,食鹽更沒人要。槍枝也成為棄物。像猴子搬玉米一般,裡面的往外面搬,擺到外面的又被別人搬走了。丟得滿碼頭都是。從這裡真可看出人性之貪婪。


船靠岸後,五十四軍辦事處的人員剛上去,岸上的人一哄往上攀,使登船梯擁擠不堪。李團長見已無法控制,前面派幾人擠,讓兩位太太先擠上去了,但我們無法擠到前面,李團長就要我們幾個從船邊上的網子上爬上去,告訴上面警衛的官兵,讓我們上去。大家見我們爬網子,前後也跟著爬。等我們被引到船長室外面的走廊下,僅僅有坐的位置,但能避風雨。除了船長室之外,算是較好的地方。這時,倉底下每一層都擠滿了人,連甲板的每一部份都擠滿了人。只有站或勉強可坐的位置。


待船上實在擠不上了,船才啓錠離岸;把登船梯放下的時候,仍在梯上沒有爬上,或沒有捉住網繩的人,都掉到河裡去了,估計不下百餘人;慘叫之聲,不忍聽聞。往網上爬的人,也因為人擠人,「砰!砰!碰!碰!」往下掉,好像不是娘生的一樣。這些的人命,哪裡比得上螞蟻啊?在岸上沒有上成船的軍人,手上有武器的,就憤怒的向船上開火。船剛移到江中,還在步槍射程之內,共軍的先頭部隊已到岸邊,朝著這條最後離開的船射擊,在邊上的人,又被射倒了不少...。


這是條超齡的貨輪,排水量六千噸,名叫「天平輪」,是黃埔港撤退的最後一條船;照平常載運量言,可運兵一千餘人,經到虎門約略估計,上船的在三千五百人以上,三天內因被擊死,重傷致死,嚇死之後,丟到海中的屍首,聽說也近三百人左右。這是我面見的最大災難!

李禮團長之大恩大德是父母親終生難忘與感激的。
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助けてくれる人もなく、一行が焦っていたその時、一台の乗用車が突然止まった。
中の一人が手を振ると、後について来た車も止まった。
前の車の後部座席に座っていた人が、頭を突出し、手を振って父に車に乗るように
と大声で叫んだ。父が声のする方を見ると、それは軍辦事処(軍事務所)
の李礼団長だった。正に天から降り立った救いの神だった。一行はこのように
して車に乗り、また車の外にしがみついて、幸運にも黄埔埠頭まで乗せて
行ってもらった。

父は彼の回想録の中でこのように記述している:「黄埔埠頭に入って停車した時、
こは至る所人で埋まっていた。船は川の中ほどにいて、まだ接岸していない。
この船は五十四軍辦事処使用に割り当てられたもので、李礼団長の指揮下にあった。
よって李礼団長の到着前に船が接岸するわけがない!
李団長は辦事処に登録済みの官兵を埠頭に集合させ、接岸後の準備をさせた。
先に乗船して混乱のないよう秩序を保つ。そして、それぞれの団体の乗船証明書の
検査や人数改めの任務を割り当てた。一切の準備は行軍の規定と要領に適ったもの
だった。船がゆっくりと近づいてきた時、石牌付近の銃声が大きく響き、
埠頭は大混乱になった。この時、港の倉庫は人々に開けられた。一部の暴徒と
化した者たちは、みな倉庫に向かって突進した。ある者は山のような大量の
軍用毛布を抱え、またある者は白いシーツをたくさん持っている。軍服を持
っている者は少なく、白米、塩は誰も必要としていない。銃もゴミになった。
サルがトウモロコシを運ぶように、中の物は外に運び出し、
外に並べたものは他の人に持っていかれた。港のあちこちは落として行った
物でいっぱいだった。ここから人間の貪欲な姿が見て取れる。

船が岸に着いた後、五十四軍辦事処の要員が乗船して間もなく、港にいた
人々はワッと声を上げてよじ登って行き、船梯子は押し合いへし合いになった。
李団長はすでに制御不能と見て、前方に数人を差し向け、
妻と袁婦人の二人を先に押し上げさせた。
しかし、私たちは前に進むことができず、李団長は私たち数名を船の周りの
網から這い上がらせようとした。上方の警備に当たる官兵に私たちを
引き上げるように告げた。周りの人たちは私たちが網を上がるのを見て、
前も後ろもみなついて上がってきた。私たちが船長室外の廊下に引き
上げられた時には、わずかに座る場所があっただけだ。
しかし、風雨をしのぐことはできる。船長室を除いて、そこは比較的良い
場所だった。この時船倉のどの階も人でいっぱいだったし、
甲板のどこも人でぎゅうぎゅうだった。立つだけ、または無理やり
座る場所があるだけだった。

船の上は本当にもう一人も乗れない状態になり、船はやっと碇を上げて
岸を離れた。船梯子をはずした時、梯子の途中で、
まだ上がりきっていない者や、網をつかまえ損なった者はみな川の中に
落ちた。その数は100人を下らないだろう。悲惨な叫び声は聞くに忍びない。
網を這い上がってくる人も押し合うために「ドスン、ドスン!ボト
ン、ボトン!」と下に落ちていく。母が子を産むのとは違う様だ。
彼らの命はアリとどこが違うというのか?乗船できなくて岸に残った
軍人は手に武器を持ち、怒って船に向けて発砲する。
船がちょうど川の中ほどまで来ても、まだ小銃の射程内であり、
共産党軍の先頭部隊はすでに岸に着いていて、最後に離岸したこの船に
向かって射撃してきた。船の欄干にいた人の多くが撃たれた。

「天平輪」という名のこの船は耐用年数を超えた貨物船で、
排水量6000トンである。黄埔港を撤退する最後の船であった。
平常時の積載量から言えば1000人あまりの兵を運ぶことができる。
虎門に着いた時の推計では、乗船している者は3500人以上で、3
日以内に撃たれて死亡した者、重傷で死に至った者、
驚き慌てて海中に落ちた死体は300人近くになったそうだ。
これは私の眼前で起きた最大の災難であった。!」

李礼団長の大恩を、父母は終生忘れることなく感謝していた。



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