2012年1月11日 星期三

回看來時路 前眺未知處(八)

關於「天平輪」在父親的回憶錄中繼續這樣記述著:「『天平輪』自黃埔在槍林彈雨中離開碼頭,停在江中時,船長即下令把被槍傷,已死亡的屍體丟下河裡去,有些沒眷屬的,被丟的不少;但有眷屬或親人的,就不願意丟下去,向船長請願准到香港後,自動搬下船去。在這亂世,船長當然也無可如何了!船到了虎門附近停下,傷亡的下去不少,還有許多人因為船上太擠,又無飲水食物,也紛紛離去,大概有半數下船了。是屬於部隊方面的人員,或無力自行設法的人員,仍在船上,人數約略不下二千人。


在當時,我們是有能力自行購船票或飛機票去台灣的,但是前面已經說過,不管船票或飛機票,都沒有把握能買到,此其一,這『天平輪』原係撥給五十四軍辦事處使用的,由李團長指揮,李團長告知:待下去的人員下清之後,馬上可以開船,大約三至四天,就可以到高雄港登陸了!只受三,四天的罪,就可達目的地,我們又何必急急於離開可靠的船呢?


船在虎門停了兩天再起錠,起錠後,我在船長會客室一指揮官的臨時辦公室,會見了李團長,他愁眉不展坐在沙發上歎息,我問他:『李團長,船既開了,三,四天就可到台灣了,你為什麼反而愁眉苦臉呢?』『老兄哪裡知道啊!剛奉到命令,此船另有任務,要先開到海口,把船上的人放下之後,再去湛江市接運一批財物回海口交卸之後,再送我們到台灣!』『那要等多久呢?』『誰知道哇?快則一兩週,慢嗎?那就看大家的運氣了!』『命該如此,也是身不由己的事!只好等吧!』彼此淒慘地一笑。船在汽笛無力鳴放中,慢慢朝海南島駛去...。


輪船慢慢地航了兩天,到了海口的港外。海口是沒有停靠海洋巨輪的碼頭的,所有的大輪都停在海口港港外,輪船隨海浪晃盪的厲害,在上面的人均難受至極。


船何時啓程去湛江市?上面仍無明確之命令;我們只好 等!等!等!


船與船上的人最傷腦筋的就是「水」的問題。船為甚麼不快開?因為自廣州所裝之煤與水,到海口後便已用光;用光了便需向海口港務司令部請求補給,司令部的能力有限,而那時停在海口港外的大船有十餘艘之多;百餘噸的補給船,今天補給了煤,過兩天水又光了,待再補給水,煤又光了!所以天平輪在海口港外一等就等了二十餘天。


在炎熱的海南島,我們二十幾天沒有正式洗過澡,僅靠由船邊上用小桶吊些海水擦擦汗污。喝的水呢?就靠排隊到機房去接那機器上流下的蒸餾水,要一,二十分鐘才能接一漱口盅。好在我們的同伴多,可以輪流去排隊,不致渴死。


天平輪在海口港外停了約二十天後,奉命至廣州灣湛江市去接運一批物資。」
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父の回想録の中で、「天平輪」に関する記述は次のように続いている。:「弾丸が雨のように乱れ飛ぶ中、「天平輪」は黄埔から出港し、川の中ほどで停船した。その時、船長は、弾に当たってすでに死亡した死体を川の中に落とすようにと即座に命令を下した。家族のいない死体の多くは落とされたが、家族や近親者がいれば、彼らは落とすのを嫌がり、「そのまま香港まで行って、自分で抱えて下船したい」と船長に願い出た。しかし、この乱世では船長は香港まで連れて行くわけにもいかない。船が虎門付近まで来て停船した時、死体は降ろされ、負傷した者の多くが下船した。船の上はとても込み合って、飲食物もないので、多くの人が次々に下船していった。およそ半数の者が降りた。部隊に属する者や自力ではどうにもできない者はそのまま船に残った。その数は2千人を下らなかった。

当時、私たちは自分で船や飛行機のチケットを買い台湾へ行くだけの財力はあった。しかし、すでに前で述べたように、船でも飛行機でもチケットを買える見込みはなかったので、虎門で船を降りなかった。また、この「天平輪」はもともと五十四軍辦事処(軍事務所)使用のために割り当てられたもので、李団長の指揮下にあり、李団長は以下のように告知した。「下船する者がすべて降りたら、すぐに出港する。およそ三、四日で高雄港に上陸することができるであろう!」私たちは、ほんの三、四日難儀するだけで目的地に到着することができる。焦って、この頼りになる船を離れる必要があるだろうか?と思ったのである。

船は虎門に二日間停泊して碇を上げた。私たちは船長の応接室(臨時の指揮官室)で李団長と面会した。彼は心配そうにソファーに座り溜息をついていた。私は彼に聞いた。『李団長、船はすでに出航して三、四日もすれば台湾に到着するというのに、あなたはなぜ浮かぬ顔をしているのですか?』『あなたはどうしてわかるのですか?私はたった今命令を受け取りました。この船は別の任務ができました。まず、海口まで行って船に乗っている人達を降ろした後、湛江市に行き、財貨・物資を受け取って、海口に戻り、その荷を降ろした後、船は私たちを台湾まで送り届けます。』『それはどれくらいかかりますか?』『わかりませんねえ、早ければ一、二週間、もし、遅いなら...それは、みなさんの運次第です。』『運命とはこういうものですね。思い通りにならないものです!待つほかはありませんね。』二人は互いに悲しそうに苦笑した。汽笛が力なく鳴る中、船はのろのろと海南島に向けて進んでいった...。

汽船はゆっくり航行し、二日後には海口港の外に着いた。海口には海洋大型船が接岸できる埠頭がない。すべての大型船はみな海口港の外に停泊していた。船は波のうねりでゆらゆらとはげしく揺れ動き、船上の人はみなとても難儀した。

何時になったら湛江市へ出港するのか?依然として上層部からの明確な命令はなく、私たちはただ待って、待って、待っているだけだった。

船と船上の人々が最も頭を悩ませるのは「水」の問題だった。船はどうして早く出港しないのか?広州から載せてきた石炭と水は、海口に到着してすぐに使い切ってしまった。なくなってしまったので、すぐに海口の港湾事務所に補給を頼んだが、司令部の能力にも限りがあった。また、その時海口港外に停泊している大型船は十数隻の多さだった。百トン余りの補給船が、今日石炭を持ってきても、二日も経てば水がなくなり、水の補給を待っていたら、また石炭がなくなってしまう状況だった。そんなことで「天平輪」は海口港の外で、二十日余りも待っていた。

炎暑の海南島で、私たちは二十数日、身体をちゃんと洗うこともなく、ただ船べりから桶をつるして汲み上げた海水で汗や汚れを拭くだけだった。飲み水はというと、機関室に行って並んで、機械の上を流れてくる蒸留水をコップでうけるだけだった。十から二十分かかってやっとうがいコップ一杯になるだけだ。幸いにも私たちは仲間が多いので、交替で並ぶことができ、喉が渇いてたまらないということはなかった。

「天平輪」は海口港外に約二十日間ほど停泊した後、命令を受けて広州湾湛江市に物資を受け取りに行った。」
翻譯:後藤 香代子 


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