也是在四五歲時,有一天下午,有人敲門,母親在忙別的事,便叫我先去玄關開門;我三步併兩步的跑下玄關,使勁把門一拉開,逼在眼前的是兩條在粗麻布衫下,綁有綁腿的腿與打著赤腳的一雙腳;我從腳腿仰頭掃上去,媽呀,我頓時倒抽一口氣,那瞬間的驚嚇可以說凝結了一輩子!
在門口站著的是一個高大壯碩,皮膚黝黑,長髮散披著,額頭,臉頰有幾條刺青(黥面),雙眼炯炯有神,身著粗獷部落服的一位原住民同胞;左右手各提了一隻腿爪綁了草繩,倒掛著的山雞;兩隻活雞在他厚實的大手中,仍不斷扭動掙扎與啼叫。
他與我那短暫詭異,互相對視不知所措的凝固瞬間,被母親在榻榻米上快速步行來到玄關的聲音所解除。那位原住民同胞見母親出來,用厚重低沈又有點沙啞且四聲不准的聲音說:要迷(米)!要衣乎(服)!
一邊說,一邊兩手把兩隻活雞提得高高的,好像要我們看清楚一點,也是要表明他要以雞換東西...在那瞬間,母親害不害怕我不知道;但她一向遇事鎮定,且能在腦中快速分析事情。她看了一眼那位原住民同胞,說:好,你等一等,我去找找...很快的,母親拿了兩件父親的舊軍長服(類中山裝但較長,前上有兩口袋,下有兩較大較深的口袋),遞給了他,也接過來那兩隻仍在扭動掙扎的土雞。
國民政府敗退台灣,初期的數年,社會上全面物資缺乏;柴米油鹽生活用品,幾乎都是政府配給;只有不夠不可能有多餘的。所謂的一切都要 ”克難”。母親給掉了兩件父親的外套,在那個時候算是給掉了一份不小的家財,但在那當下那兩件衣服也許是唯一可以應付那個局面的東西。
花蓮因為有阿美族,泰雅族,太魯閣族,布農族,薩奇萊雅族,噶瑪蘭族等六族的原住民,因此保留有豐富的原住民文化。而一直到近年原住民仍佔花蓮總人口的四分之一;其中以阿美族分佈最廣。二戰後至國民政府撤台,初期的數年,百廢待興,山上山下同樣物資奇缺,原住民被情勢所逼時常出山換取所需就不足為奇了。
記憶中,除了那第一次,以後還出現過兩次;後來的兩次母親可說是有備的應付裕如。因為他們要換的不是糧食就是衣物。隨著國政逐步上軌,經濟慢慢發展起來,原住民同胞出山換東西就越來越少,直至完全不再出現。
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花蓮のあの古屋にいた頃、書き記すべき事がまだいくつかある。
これも、私が四、五歳の時の事である。ある日の午後、
私に先に玄関を開けるようにと言った。
で玄関に走って行き、力を込めて戸を引き開けた。
すると、
脛とはだしの足が、
ら頭を上げて見上げた。おかあさん!!
びくっとして、
恐怖は記憶の底深く一生残るであろう。
玄関に立ったその人は原住民であった。背が高くがっちりとして、
額とほおにはいく筋も入れ墨があり(
ラギラと輝いて、粗野な民族服を着ていた。彼は両手に、
逆さにぶら下げられた山鳥はまだ生きていて、
で、絶え間なく体をくねらせて、懸命にもがき鳴いていた。
彼と私は、短い時間、怪しい雰囲気で、相手と対峙したまま、
早足でかけてきた母の足音で解かれた。その原住民は母を見て、
重く低い沈んだしわがれ声で、
ほしい。服がほしい。」と言った。
言いながら、両手で二羽の生きた山鳥を高々と持ち上げた。
示しているようであった。
私にはわからないが、
た頭の中で状況を素早く分析することができた。
ちょっと待って、探して来ますから...。」
服(中山服に似た丈の長い、上衣に二つのポケットが有り、
彼に手渡し、
鳥を受けとった。
国民政府が台湾に敗退して、初期の数年は、
生活必需品はほとんどすべて政府の配給であった。
足りないことはあっても、人にあげるほど余ることはなかった。
いわゆる、
母が父の外套を二着あげたことは、
産をあげたのと同じであった。しかし、
花蓮にはアミ族、タイヤル族、タロコ族、ブヌン族、サキザヤ族、
このため、
まで原住民は花蓮の総人口の四分の一を占めていた。
国民政府が台湾に撤退するまで、
こり、山地も平地も一様に物資が大変不足した。
必要な物を交換して手に入れていたのは、
記憶にあるのは、彼らはその一回と、
あとの二回については、母は準備をしていて、
しかも余裕綽綽だったといえる。
彼らが交換したい物は食料か、そうでなければ衣服であったからだ。
経済もゆっくりと発展してきて、
ることは、ますます少なくなり、のちに完全になくなった。
日譯:後藤香代子 女士
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