2012年6月10日 星期日

回看來時路 前眺未知處(十五)

仍然在花蓮的那棟老房子時期;還有幾個故事值得記下。這篇是其中之一,其他的後續再貼。

也是在四五歲時,有一天下午,有人敲門,母親在忙別的事,便叫我先去玄關開門;我三步併兩步的跑下玄關,使勁把門一拉開,逼在眼前的是兩條在粗麻布衫下,綁有綁腿的腿與打著赤腳的一雙腳;我從腳腿仰頭掃上去,媽呀,我頓時倒抽一口氣,那瞬間的驚嚇可以說凝結了一輩子!

在門口站著的是一個高大壯碩,皮膚黝黑,長髮散披著,額頭,臉頰有幾條刺青(黥面),雙眼炯炯有神,身著粗獷部落服的一位原住民同胞;左右手各提了一隻腿爪綁了草繩,倒掛著的山雞;兩隻活雞在他厚實的大手中,仍不斷扭動掙扎與啼叫。

他與我那短暫詭異,互相對視不知所措的凝固瞬間,被母親在榻榻米上快速步行來到玄關的聲音所解除。那位原住民同胞見母親出來,用厚重低沈又有點沙啞且四聲不准的聲音說:要迷(米)!要衣乎(服)!
一邊說,一邊兩手把兩隻活雞提得高高的,好像要我們看清楚一點,也是要表明他要以雞換東西...在那瞬間,母親害不害怕我不知道;但她一向遇事鎮定,且能在腦中快速分析事情。她看了一眼那位原住民同胞,說:好,你等一等,我去找找...很快的,母親拿了兩件父親的舊軍長服(類中山裝但較長,前上有兩口袋,下有兩較大較深的口袋),遞給了他,也接過來那兩隻仍在扭動掙扎的土雞。

國民政府敗退台灣,初期的數年,社會上全面物資缺乏;柴米油鹽生活用品,幾乎都是政府配給;只有不夠不可能有多餘的。所謂的一切都要 ”克難”。母親給掉了兩件父親的外套,在那個時候算是給掉了一份不小的家財,但在那當下那兩件衣服也許是唯一可以應付那個局面的東西。

花蓮因為有阿美族,泰雅族,太魯閣族,布農族,薩奇萊雅族,噶瑪蘭族等六族的原住民,因此保留有豐富的原住民文化。而一直到近年原住民仍佔花蓮總人口的四分之一;其中以阿美族分佈最廣。二戰後至國民政府撤台,初期的數年,百廢待興,山上山下同樣物資奇缺,原住民被情勢所逼時常出山換取所需就不足為奇了。

記憶中,除了那第一次,以後還出現過兩次;後來的兩次母親可說是有備的應付裕如。因為他們要換的不是糧食就是衣物。隨著國政逐步上軌,經濟慢慢發展起來,原住民同胞出山換東西就越來越少,直至完全不再出現。

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花蓮のあの古屋にいた頃、書き記すべき事がまだいくつかある。
これはその内の一つで、ほかは後に記す。

これも、私が四、五歳の時の事である。ある日の午後、
ドアをノックする人がいた。母はほかの事で忙しく、
私に先に玄関を開けるようにと言った。私はパタパタと急い
で玄関に走って行き、力を込めて戸を引き開けた。
すると、麻布シャツの下に、ゲートルでぐるぐる巻きにした
脛とはだしの足が、私の目の前に迫っていた。私は足元か
ら頭を上げて見上げた。おかあさん!!
びくっとして、息を吸い込んだ。その瞬間の
恐怖は記憶の底深く一生残るであろう。


玄関に立ったその人は原住民であった。背が高くがっちりとして、
皮膚はどす黒く、長い髪は肩にかかっていた。
額とほおにはいく筋も入れ墨があり(鯨面)、両目はギ
ラギラと輝いて、粗野な民族服を着ていた。彼は両手に、
藁縄を巻きつけた山鳥のあしを下げていた。
逆さにぶら下げられた山鳥はまだ生きていて、彼の分厚い手の中
で、絶え間なく体をくねらせて、懸命にもがき鳴いていた。


 彼と私は、短い時間、怪しい雰囲気で、相手と対峙したまま、
なすすべもなく、膠着状態にいた。それは、玄関まで畳の上を
早足でかけてきた母の足音で解かれた。その原住民は母を見て、
重く低い沈んだしわがれ声で、声調も不確かな中国語で「米が
ほしい。服がほしい。」と言った。


 言いながら、両手で二羽の生きた山鳥を高々と持ち上げた。
私たちにはっきり見えるように、また山鳥と物を交換したいと
示しているようであった。その時母が怖がっていたのかどうか、
私にはわからないが、母は平素から事に当たって冷静であり、ま
た頭の中で状況を素早く分析することができた。
母はその原住民をちょっと見て言った。「いいですよ、
ちょっと待って、探して来ますから...。」すぐに父の古い軍
服(中山服に似た丈の長い、上衣に二つのポケットが有り、
ズボンにも二つの大きな深いポケットが有る)を持ってきて、
彼に手渡し、その二羽のバタバタはねている山
鳥を受けとった。


 国民政府が台湾に敗退して、初期の数年は、
社会のすべての物資は欠乏していた。燃料、食料、油、塩など
生活必需品はほとんどすべて政府の配給であった。
足りないことはあっても、人にあげるほど余ることはなかった。
いわゆる、すべて“困難に打ち勝つ”の時代であった。
母が父の外套を二着あげたことは、その当時では大きな財
産をあげたのと同じであった。しかし、
その時の二着の服はその局面に対処できる唯一の物であったろう。


 花蓮にはアミ族、タイヤル族、タロコ族、ブヌン族、サキザヤ族、
カバラン族など六部族の原住民がいる。
このため、豊かな原住民の文化が残っている。そして、近年
まで原住民は花蓮の総人口の四分の一を占めていた。
その中でアミ族が一番多い。第二次大戦後、
国民政府が台湾に撤退するまで、初めの数年はいろんなことが一斉に起
こり、山地も平地も一様に物資が大変不足した。
原住民が情勢に迫られ、しょっちゅう山を下りて、
必要な物を交換して手に入れていたのは、特別不思議なことではない。

 
記憶にあるのは、彼らはその一回と、その後さらに二回やって来た。
あとの二回については、母は準備をしていて、
しかも余裕綽綽だったといえる。というのは、
彼らが交換したい物は食料か、そうでなければ衣服であったからだ。
国政が次第に軌道に乗るにしたがって、
経済もゆっくりと発展してきて、原住民が山を下りて物を交換す
ることは、ますます少なくなり、のちに完全になくなった。

日譯:後藤香代子 女士
 

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