This website has two categories: One category has some articles in prose style, also some creative art works. The other category is for Chinese learners. The page master is an experienced Chinese teacher. Therefore for Chinese learners,who might get help from the teaching materials from this page. I include audio files of Chinese vowels,consonants,PinYin practices and different levels of conversation practices. Thank you for using this web page. I hope it will bring you some help. Tamara
2011年6月18日 星期六
"回看來時路 前眺未知處" (三)
渡船掌舵要返回東岸,父親知東岸為共軍陣地,便逼吼著舵主往西岸靠。上岸後,獲得一位國軍的幫助,找到兩位挑夫幫挑行李,大家遂往衡山方向趕緊上路。這段是只能靠自己雙腿奔路的。八月天氣不但燠熱也不穩定,大家還得撐著傘趕路。記得小時候父親常向人提及這段經歷說:采霙那時才兩個多月,竟能坐在我胳臂上,小手還緊握著傘柄,跟著大家逃難。在父親的回憶錄中如此記述著:『...我抱著達子(我的乳名)因為她輕,把兩隻小腳套在我短汗衫的口袋中,她的兩隻小爪子,也能握著雨傘柄...』
亂世出生的孩子,沒有穩定安祥的襁褓期,有的只是 得提早接受的動盪與不安。
大家在離開沙田浦走了不到半小時,後面沙田浦的槍聲又大作,兩個挑夫丟下擔子,跪在地上叩頭道:『求求你 老爺!我們要回家看...』他們說完爬起來就往回跑,一下已跑得無影無蹤了。在那種四處既無村落也無人煙的地方,父親只有自己扛起挑所有行李的重擔。母親與袁太太已經走得雙腳起泡,不得不脫了鞋子光腳逃路。就這樣走了六, 七里路,直到碰到一位指點路途的老農人,大夥才在一個小村莊找到了幾位轎伕與挑伕。到了晚上九點才到南嶽市。這天是大家很難忘的一個苦難日,也是父親感覺生平最疲累的一天。在南嶽市等到第三天才搭到車 赴衡陽。之後乘粵漢鐵路徑往廣東的樂昌。
到了樂昌之後,他們寫了一信寄已撤至台灣的五十四軍二九一師。不久收到袁太太先生袁賢祺營長自台中沙鹿鎮覆來的信,並附了四個人入台的入境證。到此大家才都放了心。有了目標再不至有何去何從之苦惱。
這夥人從樂昌回到湖南汝城的老家,探望他們的父母與親人,雖然是逃難當中抓到的一個短暫難得的機會,可卻也是危機四伏的一次行動。因為湘南許多地方已經深度赤化 ; 老家在被土共作為司令部的半年期間,所有糧食與能用的東西,全部被一掃而空。父親此時回鄉,不但被共黨盯上,他以前教過的學生,同事,有好幾位明的暗的,利誘威脅要他答應接受某方面給安排的工作。
--------------------------------------------------------
圖:車行於路 (象形字 形藝圖)
---------------------------------------------------------
渡し船は舵をきって東岸に戻ろうとした。父は東岸が共産党の陣地と知
って、大声で船長を怒鳴り、船を西岸に近づけさせた。上陸後、一人の国民
党軍の兵士の助けを借りて、二人の荷担ぎ人夫を得て、荷物を担いでもら
った。そして、衡山方面へ大急ぎで出発した。この道を進むには、自分の2本
の足のみが頼りだった。8月の天気は蒸し暑く不安定なので、みんな傘をさ
して道を急いだ。
私の幼いころの記憶では、父はよくこの時の経験を人に話していた。「采
霙(私)はあの時、生後わずか2ヶ月なのに、私の腕に座ることができ、さ
らに、小さい手は傘の柄をかたく握りしめてみんなと一緒に逃げていた。」
父の回想録の中に、このような記述がある。『私は達子(私の幼名)を抱い
ていた。彼女は軽いので、2本の足を私の半袖ワイシャツのポケットに入れ
て、小さな2つの手はなんと傘の柄を握っていた。』乱世に生まれた子に穏
やかな落ち着いた乳児期などなく、あるのは人よりも早く受け入れなければ
ならない不穏と不安だけであった。
沙田浦を離れて30分も経たないうちに、後方で沙田浦の銃声がまた大き
く響いた。二人の荷担ぎ人夫は荷物を投げ捨て、地べたに跪き、頭をたたき
つけて言った。「どうか、どうかお助けを!旦那様。私たちは家に戻りた
い!」彼らは言い終わるとすぐに這い上がって引き返して行った。あっとい
う間に走り去り影も形もなかった。あたり一面、村落もなければ人家もない
そんな所で、父は自分一人だけですべての荷物を担ぐという重責を負うこと
になった。母と袁さんの奥さんは歩きすぎて、すでに両足にまめができ、仕
方なく靴を脱いで裸足で歩いていた。こうして3,4㎞歩き続けたのち、や
っと老いた農夫に出会い、道を教えてもらった。一行はある小さな村で数人
の駕籠かきと荷担ぎ人夫をやっと探し出した。夜の9時になってようやく南
岳市に到着した。この日は皆にとって忘れ難い苦難の一日であった。また、
父が生涯最も疲れた一日だった。南岳市で3日待って、やっと車に乗り衡陽
に向かうことができた。その後粤漢鉄路に乗り、広東の樂昌に直接行った。
樂昌に到着した後、すでに台湾に撤退している54軍291師団に手紙を
送った。ほどなくして台中の沙鹿鎮にいる袁さんのご主人袁賢祺営長の返事
を受け取った。それには4人の台湾進入証明書が同封してあった。ここに至
ってやっと安心できた。目標を得てからはもう二度と今後どうすべきか等と
苦悩することはなかった。
一行は樂昌から湘南汝城の故郷に戻り、両親や親せきを訪ねた。避難の最
中の短く貴重な機会ではあるが、至る所に危険をはらんだ行動であった。湘
南の多くの地域はすでに共産党化が浸透し、故郷は土共(民兵)によって
司令部が作られていた。その半年の間に食糧や使えるものすべてすっかり持
っていかれて、何も残っていなかった。父のこの時の帰郷は共産党に見張ら
れていただけではなかった。彼の教え子、同僚、多くの人達が、大っぴらに
またはひそかに脅してきたり、利益で釣ろうとしたりして、彼にある組織が
用意した仕事をさせようとした。
図 車は道を行く
日訳 後藤香代子
訂閱:
張貼留言 (Atom)
沒有留言:
張貼留言