2011年6月4日 星期六

"回看來時路 前眺未知處" (二)


父親因母親臨盆在即無法隨國民黨軍隊撤離, 我出生後至八月初,父母被迫住在解放後的上海市。 這期間父親曾支援其鄉親袁賢祺兄的妻與子,也發生了有驚無險的他三次被捕事件。
在混亂中父親大概盤算著如何歸隊。但情勢讓他們只能先作回老家的第一步打算 。八月初父親遂帶著母親與我,袁太太與子(袁國寧教授),同鄉等數人,買到了招商局的船票,乘 "江安輪"溯江而上,離開了上海。

父母所乘 之"江安輪 " 白日因避國軍之飛機, 須靠岸讓乘客們上岸躲避,整整航了八夜九天才抵漢口。漢口到長沙的鐵軌破損嚴重,一夥人便打算坐民船先到長沙再說。他們好不容易找到了一艘小民船。這單桅全長約三丈的小民船竟然被塞了十個大人三個小孩。這小船往南日復一日的航行著。
在洞庭湖中離開岳陽航行約二、三小時時,這小船遇到了一場驚魂的大風暴;船像一片竹葉在水中打圈圈,帆被風灌得滿滿地拉不下來,舵也被洶猛浪潮沖斷了。大家歇斯底里地狂叫。船無法控制只有聽其飄盪。船老闆以跳板作舵穩定方向。過了不久看見一艘大船,船老闆大聲呼救,但狂風猛浪如萬雷轟擊哪聽得到呼聲,況且那大船也自顧不暇。在沒有辦法當中大家只有閉上眼睛,聽天由命 ... 不知過了多久居然發現奇蹟式的擱淺在汨羅江的一條小支流的沙灘上。聽當地人說在洞庭湖遇到風暴,斷了舵,風帆無法放下的船隻,能夠不葬身湖底的還相當少見。我們這夥逃難的人幸運的躲過了一劫。

在長沙市解放後的一週餘,這夥人進入了長沙。其時湘潭以南,國軍仍與共軍對峙,他們不敢貿然南行,便在長沙暫住。暫住但也不能久待,最後大夥決定經淥口,衡山去衡陽。如此就可搭粵漢線火車至樂昌再想法轉汝城即能回家了。由長沙坐小民船經湘潭到淥口走了兩天一晚,淥口坐火車到 朱亭停了一晚,次日趕到沙田浦。在沙田浦坐渡船渡河時,東岸的共軍與西岸的國軍交起了火,子彈『嘶!嘶!』不斷掠過頭頂,大家都嚇得面如土色。渡船上會游泳的當地人都紛紛往河裡跳。
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圖 :水推浪 浪頂舟 (象形字形藝圖)
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母が出産を間近にひかえていたので、父は国民党軍の撤退についていく
ことができず、私の誕生から8月初めまでの間、
両親はやむを得ず、解放後の上海に住んだ。
この間、父は同郷の袁賢祺さんの妻子を助け、また、大事には至ら
なかったが3回逮捕されるという事件もあった。
混乱の中、父はどのようにして原隊(国民党軍)に帰るかを
思案していたのであろう。しかし、情勢はままならず、
彼らはまず故郷へ帰る準備をした。8月初め、

父はすぐに母と私・袁さんの奥さんと子供(袁国寧教授)・
同郷のひと数人を連れて、招商局の船の切符を買い、
“江安輪”に乗って河を遡り上海を離れた。
両親が乗った“江安輪”は昼間は国民党軍の飛行機に
気づかれないように、岸に着け、乗客は上陸して隠れた。
まるまる8泊9日航行してやっと漢口に着いた。
漢口から長沙への鉄道レールは破損がひどかったので、
一行は木造客船に乗って、まず長沙に行き、
その後のことはそこで考えることにした。
彼らはやっとのことで一艘の小船を探し出した。
マストが1本で全長10mのその舟は、
10人の大人と3人の子供で埋めつくされた。
小船は南に向かって一日一日航行し続けた。
洞庭湖の岳陽を離れて、2、3時間たった時、
船は驚くほどの暴風に見舞われた。
舟は竹の葉のように水上でくるくる回り、
帆は風に吹き付けられて引き降ろすこともできず、
舵も荒れ狂う波で折れてしまった。
皆ヒステリックに叫び狂った。舟は制御不能になり、
ただ漂い流されるだけだった。
船長は渡り板を舵にして方向を安定させる。
ほどなく一隻の大きい船がみえた。船長は大声で助けを呼ぶ。
しかし、荒れ狂う風と波は、まるで万雷が鳴り響くかのようで、
船長の叫び声が聞こえるわけもない。
まして、その大きい船も自分のことで手一杯で、
ほかの船のことなどかまっていられない。
なすすべもなく、皆はただ目をつぶって運を天に任せた。
どれくらい時間がたったのだろうか。
思いがけず、奇跡が起こったかのよう
に、汨羅江の支流の砂州の上に乗り上げた。
地元の人の話によれば、洞庭湖で暴風に会い、
舵が折れ、帆を降ろすこともできなかった船が、
湖底に葬られずにすむのはかなり稀だそうだ。
私たちの逃避行は幸運にも一つ災難をかわした。

一行は解放後約一週間が過ぎた長沙に入った。
その時、湘潭の南は国民党軍と共産党軍が依然対峙
したままだった。父達は迂闊に南下せず、
長沙に暫く留まった。一時的な滞在は長くなく、
最終的に淥口と衡山を経て衡陽に行くことにした。
このように、粤漢線の列車で楽昌まで行き、そこでまた方法を考え
て汝城に行く、すなわち家に帰ることができるということだ。
長沙から小船で湘潭を経て淥口まで1泊2日。
淥口で列車に乗り朱亭に行き、一晩停車し、次の日、
沙田浦に急いだ。沙田浦にて渡し舟で河を渡るとき、
東岸の共産党軍と西岸の国民党軍が交戦を始めた。
銃弾がピューピューと絶え間なく頭をかすめた。
皆、驚きと恐怖で顔は土気色だった。
泳げる地元の人は舟から次々と河に飛び込んでいった。
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図 水は波を押し上げ 波は舟を頂く(象形文字による絵)

日訳 後藤香代子

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