2011年6月18日 星期六

"回看來時路 前眺未知處" (四)


父親帶回了一位『北京』的媳婦,到家的第二天消息傳了出去,不但所有的親戚都來噓寒問暖,連不相干的村里的婦女們也三五成群的前來探望,川流不息,讓老家熱鬧了幾天。這次的拜望公婆是母親這輩子的第一次,也是最後一次。而我也有幸一生唯一的一次被祖母抱過。怎不令人愴然!

母親的智慧,幽默,機伶,果斷與剛中柔的資質與個性,在她生前與過世後這些年,每每憶及總覺得她有許多不平凡之處。如果不是她年幼喪母,生於亂世及年紀輕輕就走進家庭,她很可能會是一位有某種成就的人物。
最近透過大陸天津的舅舅與表弟的幫忙,獲得了較完整的家譜資料,閱後才瞭然,母親那份不凡的基因是其來有自的。

母親的曾祖父就是史稱『鐵脖御史』的陳鴻翊先生,字仲鑾,寧河縣人,祖籍北塘,自道光十八年始(1838年)先後認吏部主事,都察院工科掌印給事中,山西道監察御史。在山西道監察御史任上期間,逢第二次鴉片戰爭(咸豐十年,1860年,英法政府對中國正式宣戰),陳鴻翊多次上疏皇帝,主張加固北塘海防,堅決反對僧格林沁的撤防誘敵的下策,結果未被採納,致使英法聯軍攻陷大沽,侵佔津京,逼迫清廷簽訂一系列喪權辱國條約。

如果他的抗敵主張當初被採納了,晚清及民國的歷史恐都將改寫!
而他堅持自己的主張,冒著被砍頭的危險與王權抗爭,因此獲得『鐵脖子御史』的封號。
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圖:母 (象形字 形藝圖)
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父は「北京」出身の妻を連れて帰った。故郷に帰った次の日に、このニ
ュースは広まった。すべての親せきがやってきて、あれこれと気を配っただ
けでなく、関係のない村の女性たちも三々五々訪ねてきた。人の流れは途切
れることなく数日にぎやかだった。そして、私は幸運にも、生涯わずか一度
だけ祖母に抱いてもらうことができた。ただ一度だけ...どうして悲しみ
嘆かないでいられようか!

母は知恵、ユーモアセンスがあり、機敏で聡明、果断であり、芯は強いが
穏やかな資質と性格を持っている。母の生前と死後数年の間、私はいつも、
彼女は多くの非凡な面を持っているなあと思っていた。もし、彼女が乱世に
生まれ、幼少で母を亡くし、年若くして家庭に入るということがなかったな
らば、彼女は一角の人物になっていたかもしれない。

最近、天津の母方のおじや従弟の助けを借りて、完璧に近い家系図を手に
入れた。母のあの非凡さはその家系から来ていたのだとやっとわかった。
母の曽祖父は歴史上の「鉄脖御史」と称される陳鴻翊である。彼は清咸豊年、
進士になった。字は仲鑾、寧河県の人、原籍地は北塘、道光18年(1838
年)から吏部主事、都察院工科掌印給事中、山西道監察御史の職に相次いで就
いた。山西道監察御史の在任中、第二次アヘン戦争に遭遇した。(咸豊十年、
1860年  英仏政府は中国に対して宣戦布告)陳鴻翊は何度も皇帝に上奏し
た。彼は北塘沿岸の防御を強化することを主張し、僧格林沁の防御地から撤退
して、敵を誘い込む策に断固として反対した。しかし、結果は聞き入れられな
かった。英仏連合は大沽を攻め落とし、北京天津を占拠し、清朝に対し、主権
を失なう屈辱的な条約の締結を迫った。
もし、敵を迎え撃つという彼の主張が、当初受け入れられたなら、清朝末
期や民国の歴史はおそらく書き換えられることになったであろう。
そして、彼は自分の主張を曲げずに打ち首の危険と、宮廷勢力の抗争にあ
えて向かっていった。それゆえ、「鉄脖御史」の名称を拝した。

図 母

日訳 後藤香代子

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