2012年2月7日 星期二

回看來時路 前眺未知處(九)

先父在他年輕逃難的歲月中,竟然有緣與趙小蘭女士(Elaine L.Chao)(美國勞工部第24任部長 2001~2009)的祖叔公趙以忠先生有過接觸。趙女士的父親是趙錫成先生,祖父是趙以仁先生,祖父之弟便是天平輪船長趙以忠先生。

父親在他的回憶錄中這樣記載著:「...在開航前兩天,李團長請我進船長室,老船長也在,他還客氣地泡了一杯咖啡給我,這是二十幾天來第一次喝如此美味的飲料;所以對船長非常感謝!船長的年齡約在六十上下,滿頭捲曲的白髮,加上滿臉的絡腮鬍子,穿一件退了色的工裝牛仔褲,猛一看,非常像『老人與海』的作者漢明威。

在等船從湛江市回來的時間,父母和鄉親是住在海口市。父親回憶錄繼續這樣記載著:「海南島的大街小巷,因為時局的突變,到處擾擾攘攘,風聲鶴唳,使人心惶惶不安!物價一日數漲。撤退到此地的軍隊很多;尚有組織的部隊,當然也還維持軍紀,有些脫離了組織的個別官兵,為了生活,就難免有時出出下策了,所以到處有糾紛。


在海口市待到約第十天,李團長派來的人,通知我們:「『天平輪』已自湛江市回海口了。要我們在兩天之內上船,以便開赴台灣」,這真是天大的好消息。我們分頭去買了些東西,全部是吃的,其中有不少可以存放的乾糧;雖說三四天就可到台灣,我們有過一次餓肚子的經驗,就不會老老實實只帶三四天的食物了。


『天平輪』加足煤與水,正待啟錠東航台灣之際,又奉到了命令;暫停駛台,另有任務,真是急煞人也!過了五六天,命令下來了,要天平輪去榆林港運輸一批軍備與人員來海口。」船回到海口之後,又面臨上一次一般的麻煩:燃煤不夠,要請求港口司令部加煤,往返二三天加足煤後,水又不夠了,再申請加水,等兩三天水加來之後,煤又不足了;這樣的循環好幾次,等到真正把煤,水都加足,船開始啟航東渡時,已是民國三十八年十二月初了。


啟航第二天的午夜,我們在睡夢中,忽然被一聲雷轟驚醒,船像被拋到空中一般地震動;我爬起來,往船長室一看,老船長正在聽電話,我和李團長,賈副團長都站在旁邊,船長掛上電話後便說:「有一隻鍋爐爆炸了,船實在太老了!

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亡父は若いときの逃避行の最中、なんと、縁あって趙小蘭女士(Elaine L.Chao アメリカ連邦政府第24代労働長官2001~2009の大叔父趙以忠さんと出会っていた。趙女士の父親は趙錫成さん、祖父は趙以仁さん、祖父の弟はほかでもない『天平輪』船長の趙以忠さんだ。

父は彼の回想録のなかで、このように書いている。「...出航の2日前、李団長は私を船長室に招いた。中には老船長もいて、彼は丁重にコーヒーを入れてくれた。20数日ぶりにこんなにおいしい飲み物をいただき、船長にはとても感謝している!船長の年齢は60歳前後で、頭はカールした白髪で覆われ、顔は鬢まで続くもじゃもじゃのひげで、色あせたジーパンをはいていた。ぱっと見た感じは、「老人と海」の作者ヘミングウェイに似ている。」

船が湛江市から戻ってくるまでの間、父母と同郷の人は海口市に滞在していた。父の回想録は続けてこのように記されている。「時局の突然の変化で、海南島の大通りも路地も、至る所で騒動が起きていて、人々はちょっとした事にも怯え、びくびくして落ち着かない様子である。物価は日に数回上昇した。この地まで撤退してきた軍隊は多かった。依然組織だった部隊もあり、当然そこは規律を維持していた。しかし、組織を離脱した一部の兵士たちは、生活のために、時には悪事を働くこともあり、どこもかしこも、もめごとばかりだった。

海口市で待つこと十日、李団長が差し向けた人は私たちに通知した。「『天平輪』はすでに湛江市から海口に戻ってきた。台湾へ向けて出港するため、2日間の内に乗船しなさい。」これは素晴らしいニュースだ。私たちは手分けして買い物に行った。すべて食べ物である。その多くは保存できる携帯用食品であった。3,4日で台湾に到着するとはいえ、私たちは一度空腹を経験したので、正直に3,4分だけの食料を持っていくということはなかった。

『天平輪』は石炭と水を満杯にし、正に碇を上げて台湾への出港を待っているその時、また、命令を受けた。台湾行は一時停止だ。別の任務ができた。まったく、やきもきさせられる!5,6日たって命令が下った。『天平輪』は楡林港に行って、軍隊の装備と人員を海口まで運ぶというものだ。船は海口まで戻ったのち、また前と同じ問題に直面した。石炭不足である。港の司令部に補給を頼んで、2,3日往復して石炭を補給してもらった。その後、水がまた不足した。水の補給を頼み、2,3日待って水が来た。またもや、石炭が足りなくなった。このように何度も繰り返して、石炭と水が本当に一杯になってから、船は東へと出航した。時はすでに民国3812月初めであった。

出航して2日目の真夜中、眠っている時、突然の雷鳴で驚いて目を覚ました。船は空中に投げ出されたように大きく揺れた。私は這い上がって船長室を見た。老船長はちょうど電話をかけていた。私と李団長、賈副団長はそばに立っていた。船長は電話を切って言った。「ボイラーが一つ爆発した。船は全くポンコツだ!」

日訳 後藤香代子





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