2011年5月22日 星期日

"回看來時路 前眺未知處" (一)


前言

我雖然愚鈍 卻認為自己記事頗早. 因為我和大弟相差兩歲半, 一些記得的事情的場景中, 並無大弟的出現 . 以之推算 我最早的記憶 大概是兩歲左右開始的.

從出生到父母隨政府撤退至臺灣的這段, 雖然是我的懵懂期, 但因先父留下了他前半生的回憶錄, 讓我可以較仔細完整的描繪出那段的經歷.

1949年對近代中國是個相當特殊與不堪的一年. 時光雖然離它越來越遠, 但想為它記錄點甚麼的人一定不少. 我才疏學淺 所知有限, 僅能以自己這枝禿筆 就自己能得到的資料 記下我與我家的這部份.

就從1949年開始吧 !

出生 * 初生

我出生於1949年5月戰亂的中國上海. 出生後六天-5月27日 中共解放軍攻佔了上海市. 隔天5月28日上海市人民政府成立. 原本父母打算於虹口的上海市立婦產科醫院生我, 但在5月20日晚上 母親陣痛開始時, 戰況已趨緊急, 已叫不到車去該院. 幸當時他們的一位好人房東張砥中先生 派他的黃包車車伕將母親送至位於老垃圾橋的國恩產科醫院. 經過一晚的痛喚 第二天清晨五點半左右 我被生下來了. 父親的回憶錄中記載著 : 小娃娃 哇!哇! 墜地了; 我一看, 那小頭顱還沒有我的拳頭大. 醫生一秤 還不到六磅重 .全身又瘦又黑, 那胳臂與小腿 只有小黃瓜那麼粗. 我心裡想: 這個樣子能養大嗎 ? 便問大夫 : 這麼瘦小 能養大成人嗎 ? 大夫與她擦拭全身後 端詳了一會兒, 娃娃的兩眼竟張開了, 不但大大的而且烏溜溜地蠻有神. 大夫說: 她的身體雖然瘦小, 你看她兩隻有神的眼睛, 就表示她的生長是很正常的 !

老垃圾橋位當虹口, 上海北站與英法租界之要衝, 是兵家必爭之地. 出生後第五天中午, 蘇州河兩岸槍砲聲已趨激烈. 父親本想讓母親能在醫院多休息數日, 見情勢不對便提早辦出院.
出院後第三天, 父親至醫院領取出生證, 那位接生大夫帶著父親上五樓母親住過的病房, 推門一看, 滿房的瓦礫灰塵. 大夫說 :你夫人與小女真是命大啊 ! 那天你們出院不久, 醫院遭到砲彈轟擊, 一顆砲彈就正中落在你夫人的床中 ! 如未辦出院 母女性命絕難保的.

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此欄舊照為 我與先父母與大弟

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来た道を振り返り

序文
私は愚鈍であるが、非常に小さい時のことを記憶している。私とすぐ下の弟
との年の差は2歳半で、その記憶の場面には弟の姿は全くない。これから推測
するに、私の最も古い記憶は2歳前後と思われる。
生まれてから両親が政府の撤退に伴って台湾へ行くまでの間、私はまだ分別
のつかない頃だった。しかし、先に父が前半生の回想録を残していたので、私
は仔細に完全にその時期の経験を描くことができる。
1949年は近代中国にとって、かなり特別で耐え難い一年であった。今で
はずいぶん昔の話になったが、その頃の中国のために何か記録を残そうと思う
人は少なくない。私は浅学非才であり知っている事にも限りがある。しかし、
父から得た資料で、私と私の家族のことを、悪文ではあるが書き記すことはで
きる。
出生 人生の始まり
私は1949年5月、戦乱の中国上海に生まれた。誕生の六日後―5月27
日は人民解放軍が上海市を攻め落として占領した。明けて5月28日、上海市
人民政府が成立した。本来、両親は虹口上海市立婦人科医院で私を産むつもり
だった。しかし、5月20日の夜、母の陣痛が始まった時、戦況はすでに差し
迫っていて、病院に行くのに車を呼べる状態ではなかった。幸いにも、当時の
大家さんの張砥中さんがとてもいい方で、彼の人力車の車夫を差し向けて母を
老垃圾橋にある国恩産科医院に連れて行ってくれた。一晩中の陣痛の苦しみを
経て、次の朝5時半ごろ私は生まれた。父の回想録の記載によれば;

―赤ちゃんはおぎゃおぎゃと生れ落ちた。見ると、その小さな頭は私のこぶ
し大もない。医者が量ってみると6ポンドもない。全身細くて黒く、腕とす
ねはきゅうりの太さしかない。私は大きく育てることができるのだろうかと思
った。そして医者に聞いた。『こんなにやせっぽちで、大人になることができ
るのでしょうか』医者は彼女の全身を拭ったあと、詳しく診察した。赤ちゃん
は意外にも目を開けた。その目は大きく、生き生きとした黒い目で、とても元
気がよかった。医者は言った。『彼女の身体は痩せて小さいけれど、この元気
な目を見なさい。彼女の成長が正常であることを示していますよ。』

老垃圾橋は、虹口にあり、上海北駅と英仏租界の要衝で、軍事家なら必ず取
ろうとする重要な場所である。誕生後五日目の昼、蘇州河両岸の銃砲の音はす
でに激しい状態になっていた。父は、母を病院で数日は休ませられると思って
いたが、情勢は尋常ではないと見て、早めに退院させた。
退院して三日目、父は病院に出生証を受け取りに行った。私を取り上げたあ
の医者は父を連れて5階の母がいた病室に上がった。ドアを開けてみると、部
屋中、瓦礫とほこりでいっぱいだった。医者は言った。「あなたの奥さんとお
嬢さんは本当に運が良かった!あの日あなた方が退院してまもなく、病院は砲
弾をあびた。一発の砲弾は奥さんのベッドの真ん中に命中した。もし、退院し
ていなかったら、母子の命は絶対保証できなかった。」

この欄の古い写真は、私と父母と弟。

日譯 後藤香代子

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