2011年5月29日 星期日

那位老婦人的故事

我想說說那位老婦人的故事, 是因為那唯一的一次去她家拜訪, 她告訴我的故事令我記憶深刻難忘!

在波士頓, 外子上哈佛大學 修碩士時, 我們住在 奧斯頓 (Allston). 修博士時, 我們住在 薩摩維爾 (Somerville). 薩區主要街道 薩摩維爾大道 (Somerville Ave) 很長. 在一家超市對面 有一些老舊木造公寓, 我們就住在面街其中一單位的三樓. 公寓後面上坡 至下一個與薩道平行的大道, 高地道 (Highland Ave) 之間, 大概有八個街區(Block) 這位老婦人的房子就在第五街區.

這位老婦人的名字叫 Tina 姓什麼已記不清. 她說的一口濃重英國腔的英語, 身材中等 清瘦而蒼白. 那時看上去大概六十多歲. 穿著極樸素 甚至有點土氣, 走路一腿跛得厲害. 每次見她 她都提著一個灰黑色舊手提袋.
我和她因為時常搭同一班早班公車去地鐵站去城裡上班, 便慢慢熟識起來. 從無數次公車來前的幾分鐘閒聊中, 我知道她沒有兒女 但在歐洲尚有親戚 . 八, 九年前 丈夫過世後 便一直獨居 , 與二十二隻貓相依相伴. 她一直在一所醫學中心非全職的負責醫療器具的清潔消毒工作.
每次見到她 她手提袋裡永遠有個保溫瓶. 我猜測她很少在外吃飯 只吃自己帶的.

有一次她主動邀請我周末去她家裡坐坐 我欣然應允.
那個周末下午, 我帶了一點水果去到她家, 她很熱情的領我進入, 一進入, 登時傻眼! 所有的厚窗帘都是拉上的, 只有一處留有半公尺寬的蕾絲帘, 些微的光線射入. 屋內相當昏暗. 她帶我參觀她一樓的客廳, 起居間, 餐廳, 廚房 及旁邊的儲藏間. 一邊看一邊講那些家具的歷史. 客廳與起居間裡 除了她與當初先生坐的兩張沙發椅及餐桌, 椅外, 所有的大小沙發, 軟椅子 全部被罩布覆蓋 ,罩布上還包一層透明塑膠布, 有的塑膠布上又蓋有報紙. 房內到處都是貓, 老的, 小的, 花的, 黑的, 黃的, 白的 ... 椅子上, 櫃子上, 地上... 走的, 坐的, 睡的, 追逐的... 我簡直是進入了非人世界.

她用精緻的咖啡杯準備了紅茶放在餐桌上, 我們便圍著餐桌坐下. 她開始談她的貓 ; 牠們的名字, 身世, 個性, 誰跟誰相處得好, 誰跟誰處得不好, 我就忙著觀察這隻那隻她正在形容的貓, 聽著聽著 , 突然她轉變話題說 : 我先生就坐在那張椅子上. 我順著她指的方向看那個空在那的舊大沙發椅, 有點不解的問 : 對不起(Beg pardon)? 她說 : 我先生仍和我生活在一起. 他天天都會坐在那一會兒和我談話. 我也每天準備他的一份食物, 我們還是天天一起進餐 ...

她那雙不算大但有神的藍眼睛 強有力的盯著我的眼睛 說 : 妳大概不會相信我說的這些 但這是真的 !

聽到這裡 我有點發暈!!! 但還是努力鎮定的在顱內快速的分析著: 她能一直在外工作, 還是在醫療單位工作, 可見她精神狀態應無大問題. 可如果正常, 怎麼會說這樣的話? 她又說 : 我們還是常一起出外散步, 看到一些別人家放在院門口的丟棄物, 要是他覺得有用的, 他就會幫著我搬回來 . 就在幾天前, 我們看到一根房樑似的木頭, 他說 這個可以搬回家. 我說 : 這麼重這麼長怎麼搬? 他說 : 妳就光扶著前面, 我來扛後面. 說到這裡, 她站起身來, 表演給我看, 她是怎麼扶著木頭而她先生是怎麼在後扛那條木頭. 就這樣就搬回家了. 她說 : 塔瑪拉 (我英文名), 我告訴妳, 沒有他的幫助, 我自己是絕不可能做成的 !!!

看著她那又瘸腿又單薄的身體, 再看她家裡堆的那些粗重的條條塊塊, 這整個情形真的像個謎 !!!

最後一次見她 是在聽她說她工作單位的幾位醫生, 為了感謝她長久以來的貢獻, 願為她施行骨骼手術. 希望能讓她腿瘸的情形改善後不久, 大概也就是她手術後療養期間 我們也搬離了薩摩維爾.

如果她還在世也是九十多近百歲的老太太了. 如果已不在世應已與她先夫在天國重聚了!
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あの老婦人の話

私はあの老婦人のことを話そうと思う。というのも、ただ一度だけ彼女の
家を訪問して彼女から聞いた話が忘れ難く、記憶に深く残っているからだ。
ボストンで夫がハーバード大学の修士課程を学んでいる時、私たちはオールス

トン(Allston)に住んだ。博士課程の時はサマービル(Somerville)に住んだ。そ

この幹線道路サマービルアベニュー(Somerville Ave)はとても長い。スーパ

ーの向かいにいくつかの古い木造アパートがあり、私たちは幹線道路に面した
棟の三階に住んでいた。アパートの裏の上り坂は、サマービルアベニューと並

行に走るハイランドアベニュー(Highland Ave)まで続いていた。その坂道にはお

よそ8街区(Block)あり、老婦人の家は5街区にあった。

老婦人の名前はティナ(Tina)、姓は何だったかもうはっきり覚えていない。

彼女は強烈な英国訛りの英語を話し、中肉中背、ほっそりして青白く、当
時は60数歳に見えた。とても地味な服を着ていて、時に少し野暮ったか
った。歩くときは片足を引きずって歩く。いつ見ても黒っぽい灰色の古い手
提げバッグを提げていた。私と彼女はよく朝の同じ通勤バスに乗り、地下鉄
駅に行き、市内に通勤していたので、次第に親しくなってきた。バスが来る
前の数分間のおしゃべりの中からわかったことは、彼女には子供はいないが

ヨーロッパにまだ親戚がいる。8、9年前にご主人が他界した後、ずっと一人

暮らしである。22匹の猫と寄り添って暮らしている。医学センターで非常勤

で医療器具の洗浄消毒の仕事を続けている、などである。彼女はいつも手提
げバッグの中に魔法瓶を入れていた。外食は少なく、自分が持ってきたもの
を食べるだけなのかなと思った。

ある時、彼女は私に週末遊びに来るようにと誘った。私は喜んで承諾し
た。その週末の午後、果物を持って彼女の家に行った。彼女は心から私を
招き入れてくれた。が、入ったとたん、驚いてものも言えなくなった。す

べての厚地カーテンは閉じられ、一か所だけレースのカーテンが50㎝ほど残

っていて、そこからわずかな光が射し込んでいた。部屋の中はかなり暗い。
彼女は一階の客間、リビング、食堂、台所とその横の貯蔵室を案内してくれ
た。家具を見ながら、その歴史を話した。彼女と当時ご主人が座っていた2
つのソファーと食卓、椅子を除く、客間とリビングの大小のソファー、柔ら
かい椅子はすべてカバーがかけられていた。カバーの上にはさらに透明のビ
ニールがかけられ、またそのいくつかには、新聞紙がかけられていた。部屋
の中はどこもかしこも猫だらけ。年老いた猫、小さい猫、模様のある猫、黒
色、黄色、白色...椅子の上、箪笥の上、床の上、歩いている、座ってい
る、眠っている、追いかけっこしている...まるで非人間世界に入ってし
まったようだ。




彼女は細工の細やかなコーヒーカップで紅茶を入れてテーブルの上に置
いた。私たちはテーブルをはさんで座り、彼女は猫の話を始めた。猫たち
の名前、身の上、性格、どれとどれが相性が良くて、どれとどれが悪い。
私は忙しげに、この猫あの猫と彼女の説明する猫を観察した。ずっと聞きつ
づけた。突然、彼女は話題を変えて言った。「私の夫はあの椅子に座って
いるわ。」私は彼女の指さす先の誰も座っていない古い大きいソファを見
た。ちょっと理解できずに聞いた。「え~っと、失礼ですが。」彼女は言
った。「私の夫はいまも私と一緒に生活しています。彼は毎日そこに座って
私とおしゃべりしています。私は毎日彼の食事を用意し、毎日一緒に食事し
て...」

彼女の大胆ではないが、キラキラ輝く青い目は力強く私の目をみつめた。
そして言った。「あなたはおそらく私の言っていることが信じられないでし
ょう。しかし、これは本当のことです。」

ここまで聞いて私は眩暈がした。しかし、なんとか落ち着いて頭の中で素
早く分析した。「彼女はずっと外で仕事をしてきた。それも医療機関で働い
ている。彼女の精神状態に問題があるはずがない。しかし、もし正常なら
ば、どうしてこんな話ができるのだろうか。」彼女はさらに言った。「私た
ちはいつも一緒に散歩に出かけるの。よその人が庭の前に捨てている物を見
て、もし彼が役に立つものだと思ったなら、私と二人で協力して持って帰
る。数日前には、家の梁のような木材を見て、これは家に持って帰ることが
できるなと言った。私はこんなに重くて長いものをどうやって運ぶのと聞い
た。君は前を持ちなさい、私は後ろを担ぐからと彼が言った。」ここまで話
して、彼女は立ち上がり、彼女がどうやって木材を抱え、彼女のご主人がど
のように後ろで担いで持って帰ってきたかをやって見せた。彼女は言った。
「タマラ(私の英語名)、これは本当なの。彼の助けなしで、私一人で絶対
にできない事だわ!!」

足が不自由でひ弱な彼女の身体を見て、さらに彼女の家の太くて大きい木
材の山を見ても、この事実は全く謎めいている!!

最後に彼女を見たのは、彼女が足の手術のことを話した時だった。彼女の
職場の数名の医師が彼女の長い間の貢献に感謝して、不自由な足が良くなる
ようにと、骨の手術をしてくれるということだった。その後まもなく、おそ
らく彼女の手術後の療養期間に私たちはサマービルを離れた。

もし、彼女が健在ならば90過ぎの100歳近い老婦人である。もし、こ
の世にいなければ、すでに天国でご主人と再会しているに違いない。

2011年5月25日 星期三

圖三


近十七年前 坎伯小學三個可愛小姑娘 攝於學校聖誕慶祝會後
(南半球聖誕節在夏天)

圖二


女兒穿校服與來訪的祖母在學校合照

制服觀 (組圖)


我女兒小學 一, 二年級在澳大利亞坎培拉上的, 三,四年級在臺灣台北上的, 五,六年級在日本宮崎上的. 因為在這三個不同國家, 不同語言, 不同文化, 各上了兩年小學, 等於是各經歷了兩個春夏秋冬. 讓孩子與家長都留下了不少回憶. 對家長而言 最美好的是在坎培拉的兩年.

近十七年前的坎培拉除了景色別緻, 空間寬廣, 民性悠逸外 女兒上的那個小學裡的老師们卻特別令人懷念. 她們各個好像都在無形中奉行著 有教無類 甚至 慈悲為懷 的宗旨. 那時每天早上我都走路送孩子去上學, 沿途常常看到有小朋友在摘路邊的小野花. 有時小朋友會主動告訴路人, 他/她 的花是要送給某某太太的 (孩子们稱老師都是某某先生, 某某太太...) 我就碰過好幾次.
每一班每天可能都有小朋友送花給老師. 如果不是老師真愛學生, 學生真愛老師, 怎麼會有這種情形發生?

令人懷念的還不止這些, 經過了後來的臺灣及日本的小學及初中生活, 那個小學的校服制度才真叫人"敬佩" !
坎培拉的坎伯小學的校服是以上身橘黃色配下身黑色為基調. 可貴的就在 它提供了許多選擇 : 薄的,厚的, 長袖的,短袖的, 圓領的, 襯衫的, 短褲, 長褲, 裙子, 女生還有黃底細格子的連衣裙. 孩子依照 自己 的感覺, 怎麼組合著穿都可以 ,都是校服, 都不犯規. 不會像後來在臺灣或日本常見的,換季以後 碰到天氣異常, 學生不是大汗淋漓就是凍得發抖.

或許你以為要買那麼多件制服 家長負擔一定不輕 ?這方面他們就更有智慧了; 學校有一間房專讓家長寄賣孩子穿過的新舊制服, 需要添購制服的家長絕對可以 以極低的價格在這間屋裡找到他要的各款制服. 而因為制服質料好 加上件數多, 因此淘汰率就低. 有的衣服甚至可以轉三手四手, 一點都不浪費資源.

許多尚有硬性規定制服的學校 都有它各式各樣的支持理論; 或謂英國如何如何, 德國如何如何, 但澳大利亞是大英國協一份子, 方方面面應仍承襲更多英國的制度與概念. 可是我們的經驗是, 在制服方面, 她卻有如此的彈性與人性, 怎不令人事隔那麼久仍為她擊節稱賞 !
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本欄圖為女兒與坎伯小學的校標

2011年5月22日 星期日

"回看來時路 前眺未知處" (一)


前言

我雖然愚鈍 卻認為自己記事頗早. 因為我和大弟相差兩歲半, 一些記得的事情的場景中, 並無大弟的出現 . 以之推算 我最早的記憶 大概是兩歲左右開始的.

從出生到父母隨政府撤退至臺灣的這段, 雖然是我的懵懂期, 但因先父留下了他前半生的回憶錄, 讓我可以較仔細完整的描繪出那段的經歷.

1949年對近代中國是個相當特殊與不堪的一年. 時光雖然離它越來越遠, 但想為它記錄點甚麼的人一定不少. 我才疏學淺 所知有限, 僅能以自己這枝禿筆 就自己能得到的資料 記下我與我家的這部份.

就從1949年開始吧 !

出生 * 初生

我出生於1949年5月戰亂的中國上海. 出生後六天-5月27日 中共解放軍攻佔了上海市. 隔天5月28日上海市人民政府成立. 原本父母打算於虹口的上海市立婦產科醫院生我, 但在5月20日晚上 母親陣痛開始時, 戰況已趨緊急, 已叫不到車去該院. 幸當時他們的一位好人房東張砥中先生 派他的黃包車車伕將母親送至位於老垃圾橋的國恩產科醫院. 經過一晚的痛喚 第二天清晨五點半左右 我被生下來了. 父親的回憶錄中記載著 : 小娃娃 哇!哇! 墜地了; 我一看, 那小頭顱還沒有我的拳頭大. 醫生一秤 還不到六磅重 .全身又瘦又黑, 那胳臂與小腿 只有小黃瓜那麼粗. 我心裡想: 這個樣子能養大嗎 ? 便問大夫 : 這麼瘦小 能養大成人嗎 ? 大夫與她擦拭全身後 端詳了一會兒, 娃娃的兩眼竟張開了, 不但大大的而且烏溜溜地蠻有神. 大夫說: 她的身體雖然瘦小, 你看她兩隻有神的眼睛, 就表示她的生長是很正常的 !

老垃圾橋位當虹口, 上海北站與英法租界之要衝, 是兵家必爭之地. 出生後第五天中午, 蘇州河兩岸槍砲聲已趨激烈. 父親本想讓母親能在醫院多休息數日, 見情勢不對便提早辦出院.
出院後第三天, 父親至醫院領取出生證, 那位接生大夫帶著父親上五樓母親住過的病房, 推門一看, 滿房的瓦礫灰塵. 大夫說 :你夫人與小女真是命大啊 ! 那天你們出院不久, 醫院遭到砲彈轟擊, 一顆砲彈就正中落在你夫人的床中 ! 如未辦出院 母女性命絕難保的.

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此欄舊照為 我與先父母與大弟

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来た道を振り返り

序文
私は愚鈍であるが、非常に小さい時のことを記憶している。私とすぐ下の弟
との年の差は2歳半で、その記憶の場面には弟の姿は全くない。これから推測
するに、私の最も古い記憶は2歳前後と思われる。
生まれてから両親が政府の撤退に伴って台湾へ行くまでの間、私はまだ分別
のつかない頃だった。しかし、先に父が前半生の回想録を残していたので、私
は仔細に完全にその時期の経験を描くことができる。
1949年は近代中国にとって、かなり特別で耐え難い一年であった。今で
はずいぶん昔の話になったが、その頃の中国のために何か記録を残そうと思う
人は少なくない。私は浅学非才であり知っている事にも限りがある。しかし、
父から得た資料で、私と私の家族のことを、悪文ではあるが書き記すことはで
きる。
出生 人生の始まり
私は1949年5月、戦乱の中国上海に生まれた。誕生の六日後―5月27
日は人民解放軍が上海市を攻め落として占領した。明けて5月28日、上海市
人民政府が成立した。本来、両親は虹口上海市立婦人科医院で私を産むつもり
だった。しかし、5月20日の夜、母の陣痛が始まった時、戦況はすでに差し
迫っていて、病院に行くのに車を呼べる状態ではなかった。幸いにも、当時の
大家さんの張砥中さんがとてもいい方で、彼の人力車の車夫を差し向けて母を
老垃圾橋にある国恩産科医院に連れて行ってくれた。一晩中の陣痛の苦しみを
経て、次の朝5時半ごろ私は生まれた。父の回想録の記載によれば;

―赤ちゃんはおぎゃおぎゃと生れ落ちた。見ると、その小さな頭は私のこぶ
し大もない。医者が量ってみると6ポンドもない。全身細くて黒く、腕とす
ねはきゅうりの太さしかない。私は大きく育てることができるのだろうかと思
った。そして医者に聞いた。『こんなにやせっぽちで、大人になることができ
るのでしょうか』医者は彼女の全身を拭ったあと、詳しく診察した。赤ちゃん
は意外にも目を開けた。その目は大きく、生き生きとした黒い目で、とても元
気がよかった。医者は言った。『彼女の身体は痩せて小さいけれど、この元気
な目を見なさい。彼女の成長が正常であることを示していますよ。』

老垃圾橋は、虹口にあり、上海北駅と英仏租界の要衝で、軍事家なら必ず取
ろうとする重要な場所である。誕生後五日目の昼、蘇州河両岸の銃砲の音はす
でに激しい状態になっていた。父は、母を病院で数日は休ませられると思って
いたが、情勢は尋常ではないと見て、早めに退院させた。
退院して三日目、父は病院に出生証を受け取りに行った。私を取り上げたあ
の医者は父を連れて5階の母がいた病室に上がった。ドアを開けてみると、部
屋中、瓦礫とほこりでいっぱいだった。医者は言った。「あなたの奥さんとお
嬢さんは本当に運が良かった!あの日あなた方が退院してまもなく、病院は砲
弾をあびた。一発の砲弾は奥さんのベッドの真ん中に命中した。もし、退院し
ていなかったら、母子の命は絶対保証できなかった。」

この欄の古い写真は、私と父母と弟。

日譯 後藤香代子

2011年5月20日 星期五

預告

即日起將不定期連載 "回看來時路 前眺未知處" --- 版主的類回憶錄.
敬請 參考 批評 與 指教.

感謝支持 !

2011年5月18日 星期三

圖五 滷蛋和 龍眼粥

圖四 會長们在忙

圖三 臺灣攤位

圖二 街內頂棚掛的鯉魚旗

圖一 " 一番街" 前

宮崎市的國際交流活動(組圖)

日本九州東南方宮崎縣的首府宮崎市, 雖然只是一個三十多萬人口的市, 但卻是一個滿國際化的市 . 除了一年一度的國際音樂祭 有許多國際上知名音樂家前來參與盛會外, 她還有一個屬縣政府的國際交流協會, 一個屬市政府的國際交流協會. 每年這兩個機構 會各辦一次國際交流活動.
今年又多出一個青年工商會辦的國際交流會.
2011年5 月15號 第一屆青年工商會辦的國際交流活動, 選在城裡最熱鬧的小街 "一番街" 和 "若草通"裡. 有不同國籍的人士在主持本國的攤位, 有的攤位販售本國的餐飲, 有的攤位兼賣二手貨. 賣得的錢將捐本次日本東北浩劫的受災難民.

臺灣攤位是由 "梅蘭竹會"(註) 正副會長主持. 會長準備了滷蛋, 綠豆湯, 龍眼粥 等臺灣小吃 .生意興隆 . 兼賣的二手貨也有不少人挑撿選購.

~~~ "梅蘭竹會" 是由六位臺灣住宮崎的太太们 因為珍惜異地相識的緣份, 從互相幫助 進而能與居住地人民 促進文化交流而 組織起來的. 基本上每月大家聚餐聚會一次; 除了各自舒懷 也互相打氣 讓團體成員能生活的更美好.

2011年5月11日 星期三

奢與簡 (附 日文翻譯)

一個讓不少華人得到心靈慰藉的好網站突然有兩天讓人怎麼連都連不上去. 那兩天那種失望, 茫然, 甚至有些傷感的情緒, 讓自己都覺得有點慚愧 ! 不由得想到 在精神層面上也有 "由簡入奢易, 由奢入簡難" 的情況.

不過好在人的適應力是很強的; 某種情況一久了就習以為常. 再壞的情況, 結果也有可能變成 "否極泰來" !

那網站已恢復正常, 所以閱衆又回到 "奢" 了 .

在奢中要有簡的準備, 在簡中要有奢的警惕 !!! 以此自勉 .

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贅沢”と“質素”


多くの華人のこころを癒しているインターネットサイトが、突然2日間どうやっても全く繋がらなくなった。その間、がっかりして、何が何だかさっぱりわからないし、悲しい気持ちにさえなってしまい、そんな自分を恥ずかしく思った。精神的な面においても「“質素”から“贅沢”になるのは簡単だが、“贅沢”から“質素”になるのは難しい」ということがあるのだなと思った。


しかし、幸いにも、人の適応力はすごいもので、ある状況もしばらくたてば、慣れてきてそのうち当たり前になる。たとえ、さらに悪い状況になったとしても「悪運も極まれば幸運が来る」ということにもなりうる。


そのサイトはすでに正常に戻ったので、閲覧者たちはまた“贅沢”に戻った。「“贅沢”の中に “質素”への備えが必要であり、“質素”の中に“贅沢”への警戒が 必要だ。」

この言葉で自分を戒める。


                          日訳 後藤香代子

2011年5月7日 星期六

幾張畫 第五張


第五張 潮滿珠 (學生 西村 和浩 所繪)

幾張畫 第四張


第四張 醜姐被拒 (學生 久保崎 千步 所繪)

幾張畫 第三張


第三張 大山神 (1~3張為版主所繪)

幾張畫 第二張


第二張 天地分開

幾張畫


兩年前, 我帶著我的漢語班的四位學生, 製作了一部簡單的記錄片. 片名為: 宮崎神話. 我們創作了三十五張相關圖畫, 並去到神話有關景點 拍了影帶. 水彩畫與景點的穿插, 並配上神話故事的旁白, 完成了這部記錄片. 幾次在校內校外放映 都獲得贊賞.
在此 我挑出幾張 與閱者共享. 未來有機會 將會上傳整部片子.

第一張 混沌未開

2011年5月4日 星期三

老來的感觸

昨想聽一支老歌 卻連帶的在 Youtube 上點到了兩部老電影, "江山美人" 與 "梁山伯與祝英台",
我幾乎從頭到尾 複習了一遍 "梁祝". 看到最後 竟仍然熱淚盈眶, 自己對自己不曉得說什麼好.
這半世紀多前的一部電影 因為在當時非常特殊;
--- 戲外女星演戲內男角, 戲內 女角 女扮男又恢復女身, 讓人感覺雌雄混沌錯亂.
--- 又為臺灣觀眾初次接觸黃梅調電影,
--- 又是大悲劇,
在當時造成空前也可說絕後的轟動! 記得有報導, 有人看了一百多場, 看五,六場,十幾場的絕不在少數. 臺北被國際上形容為 " 瘋人城 ".
現在 相信還有許多中老年人 可以完整的唱完整齣的戲詞 !!!

一個世代有一個世代的記憶. 這代的記憶不能和下代共享 只能孤獨的自己咀嚼. 下個世代與往後的代代 一樣也將嘗到這樣的感觸. 這難道不是人世間的蒼涼與無奈嗎 ?

2011年5月2日 星期一

你有鼻環嗎? (附日文翻譯)

賓拉登被擊斃, 英美媒體不間斷的大肆報導. 而人群聚集 歡欣鼓舞的鏡頭也被特別聚焦.
當然 對當初被害人的家屬親朋而言, 這消息無疑令人欣慰與振奮 !
但是不是會有更多人在心裡這樣問 : 為什麼這種事件沒發生在加拿大或墨西哥? 為什麼這事件沒發生在卡特或克林頓總統的時代 ? 甚至於更根本的問題 : 為什麼這種事件會發生 ?

許多媒體是當政者的傳聲筒; 他們傳遞訊息有它的特殊目的與考量 . 但我們接受訊息的人, 一定要有全角度的分析與獨立的思考. 要訓練自己 有不被媒體牽著鼻子走的能力 !

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あなたは鼻輪で引きずられていない?


ビンラディンが射殺されて、米英のメディアはひっきりなしに盛んに報道している。そして、人びとが集まり、小躍りをして喜んでいる場面に、わざわざピントを合わせる。当然、当初の被害者家族や友人からすれば、このニュースはうれしくてほっとし、また元気づけるのは間違いない。


しかし、多くの人はこころの中で、このように問うたのではないか「なぜ、この事件がカナダやメキシコで起きなかったのか? なぜ、カーターやクリントン大統領の時代に起きなかったのか? さらには、根本的な問題。どうしてこのような事件が起きたのか?」


多くのメディアは政権を握る者のメガホンの役目をしている。彼らが伝えるニュースはメディアの特殊な目的と考えによるものだ。私たちニュースを受ける側は、あらゆる角度からの分析と独自の考えを持つべきである。メディアに鼻を引きずられないように、自分を訓練しなければならない。


                          日訳 後藤香代子

2011年5月1日 星期日

續 美牛

我二十年前的十年, 是個有點瘋狂的肉食者, 尤其對美國牛肉 !
1979 到 89 十年間, 雖然我美國臺灣來回了幾趟, 但大部份的時間是在美國工作.
在波士頓一家公司工作時, 有一位同事是香港嫁入美國的華人. 她的丈夫與幾代家族都是餐飲業成功的經營者.
因同是華人有時在公司食堂遇見便多聊幾句, 熟識後就常坐在同桌吃午飯. 每次聽她用廣東腔普通話夾雜著一大堆英語,天南地北的聊著她的在西方世界的生活經驗與心得, 覺得新鮮又受用.
有一次她問我 : 妳吃牛排嗎?
我說 : 我來美國後對牛肉特別欣賞.
她說 : 你知道怎麼做最好吃嗎?
我被她一問 才意識到 對牛肉我一無所知.
我說 : 我不知道.
她說 : 最好吃的做法是最簡單的, 去市場上選一包好一點的牛排肉, 做前 別洗別醃 鍋裡也別放油 ,千萬記得要把鍋先燒熱. 鍋燒熱後 放入牛排 ,不動它, 煎一分鐘, 後 換面, 再煎一分鐘, 即可起鍋 .
之後 才隨自己口味撒鹽或胡椒.

當天下班回家立刻照著她教的做一次. 做完 在盤中切第一刀, 看到肉的橫切面, 寬寬的鮮紅色 兩旁是窄窄的粉紅色, 粉旁是更窄近白色的兩條. 叉了一塊這頂多是五分熟的肉 往嘴裡一送,
媽媽咪呀!!! 我所有的口腔細胞與味蕾 都興奮的跳躍起來, 連著味覺的腦波也振動得特別厲害; 每吃一塊就更加深了這樣的振動!
那種 純, 嫰, 香的本色牛肉味 直到很久很久以後 仍深存在某處的腦細胞中 !
自那次以後 雖然我已有二十多年不吃肉類, 但在我的廚房 為了家人或朋友, 若遇牛排 還就只認定這種做法. 三十多年來都沒變 !
讀到這篇的朋友, 下次如果你買到一塊不錯的牛排肉 ,不妨試著做做看. 如果去美國就更不可錯過嘗嘗美牛了 !!!

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「続 アメリカ産牛肉」



私は30年前から20年前までの10年間、狂ったように肉を食べていた。
とりわけ、アメリカ産牛肉!!1979年から89年までの10年間、
私はアメリカと台湾を何度も行き来していたが、ほとんどの時間は
アメリカで仕事をしていた。ボストンにある会社で仕事をしている時、
アメリカ在住の華人に嫁いだ香港人の同僚がいた。
彼女のご主人も数世代の家族もみな、飲食業で成功した経営者である。

彼女も私も共に華人なので、時には会社の食堂で出会って、
二言三言言葉を交わした。親しくなってからは、よく同じテーブルで
昼食をとった。毎回、彼女は、英語が多く混じった広東語訛りの中国語で、
西洋での生活体験や会得したことを取りとめもなく話した。
それは新鮮であり、また役に立つものだった。

ある時彼女は私に聞いた。「あなたはビーフステーキを食べますか。」
私は言った。
「私はアメリカに来てから、牛肉がとても気に入っています。」
彼女は言った。「どうやって作れば一番おいしいか知っていますか。」
私は彼女に問われて初めて、自分が牛肉のことを少しも知らない
ことがわかった。私は言った。「知りません。」彼女は言った。
「最もおいしい作り方はとても簡単よ。マーケットに行って良い
ステーキ肉を選びます。作る前に洗ったり味付けしたりしてはだめ。
鍋に油を入れてもだめ。必ず先に鍋を焼き付けるのを忘れないで。
鍋が熱くなったらステーキ肉を入れる。動かしてはだめ。一分間焼き、
ひっくり返してさらに一分間焼く。そして、すぐに取り出す。
そのあと、自分の好みで塩や胡椒をふりかける。」

その日、仕事が終わり家に帰って、さっそく彼女の教えに
従って作った。出来上がって、皿の上でナイフを入れた。
肉の横断面は幅広の鮮紅色で、両側は細いピンク色、
ピンクの外側は白色に近い細い二本の筋。
ほとんどレアに近い肉をフォークで一刺しし口に運んだ。
「マンマミーア!!感動だ!なんておいしいの!」口の中のすべての
細胞と味覚芽は興奮して飛び跳ねた。
味覚の脳波までも激しく振動した。一切れ食べるごとにその振動は
さらに激しさを増した。味付けをしていない、柔らかな、香り高
本来の牛肉の味はその後ずっとずっと、脳細胞のある所に深く
存在し続けている。

彼女に教えてもらってからのち、私は20数年肉類を食べていないが、
我が家のキッチンで家族や友人にステーキを作る時があれば、
やはりこの方法で作る。30数年来変わらない!!

ブログ読者のみなさん、もし、良いステーキ肉を買ったなら、
まず、試しに作ってみることです。もし、アメリカに行くならば、
アメリカ産牛肉を味わう機会を逸しないでね!!



日訳 後藤香代子